Calender

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>

Categories

Archives

Recent Entries

Recent Comment

-

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 2017.04.13 Thursday
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

社会・規則

知的生活のヒントって。。

 みなさん、こんばんわ。

今年もまた世界長者番付が発表されましたね!

フォーブス長者番付、フェイスブック関係者6人がランクイン
Facebookから6人も名前があがったそうで、今後のネット社会と経済動向に注目ですね。


◆今日は素敵女性を紹介したいと思います。


彼女は二人の娘さんをカナダで育てながら暮らすシングルマザー!
というだけではありません!!

名前はYURIさん。


ブリティッシュコロンビア大学(UBC)にてMBAを修了後、自身の経験を活かし、教育・移民コンサルティング会社"Shine Canada"をバンクーバーに設立。
カナダにてキャリアアップしたいと思っている人たちをフルサポートする毎日を、二児の女の子のシングルマザーとして頑張りつ、キャリアアップに関する悩みまで幅広くカウンセリングをこなすプロフェッショナルです。


「キャリア留学」カナダでの就活をサポートしてくれる心強い味方
キャリア留学応援サイト「シャインカナダ」


彼女のブログに素敵な記事が書かれていたので、紹介してみます。


◆以下ブログより引用◆

「聴」という漢字は
耳、 十、 四、 心
から成り立ちます。

一つの心だけではなく十四の心をもって耳を傾ける。

クライアントの方の意見をお伺いする時、固定観念・自分の一方的な考えに囚われていては、肝心の事が理解できずまま、プロセスが進む危険性があります。

視点を変え、様々な観念、喜怒哀楽の感情の理解、そして何よりも聴く姿勢で、クライアントの方の話に耳を傾けることが大切です。

クライアントの方が不満・クレームを抱えられている時は、特に「聴く」に徹します。

それが、クライアントの方の一方的な見解であったとしても、とにかくお話をお伺いする。
そこから、解決の糸口が見えてきます。

何件ものケース+継続中のプロジェクトの数々を抱えていると、十四もの心が持てない時が正直あります。
しかし、落ち着いて、まずは、クライアントの方の声に耳を傾ける。

「聴」

コンサルティングでは忘れてはならない事です。

◆引用ここまで◆





素敵ママ社長の考えることは、やっぱり素敵。


でもね、私思うんですよ。
本当はみ〜んな、心はそう知っているんだって。

落ち着いて、静かにそばにいる「誰か」に耳を傾けて、聴こうってしてること。

でも・・
そんな簡単なことでも完璧に出来ないってことも。


いいよ。それでって!
そう思っています。


彼女のように出来るようになるためには、今自分に出来る事をするしかない。
きらきら輝くために。


知的生活って、そんな気づきから、思いつきから始まるもの♪
ではないかしら。
(*^^)v

  • 2011.03.10 Thursday
  • 19:33

社会・規則

変わる時代… 変わらないもの

 
日本も四半世紀前と比べると随分と様変わりしました。


携帯電話やモバイルPC、音楽やゲーム機器などは驚くほど進化して、人々の生活の中に当たり前のように馴染み、また溶け込んでいます。


日本てどんな国?
そう聞かれてはっきり文化や伝統、慣習や風情など述べることが出来るでしょうか?

日本の文化・伝統の継承が困難であり、風前の灯となりつつあることを寂しく思っている年代者は私だけではないと思います。


でもそれは日本に限ったことではないようです。


お隣の国、中国でも社会はめまぐるしく変化しています。



中国人の個人観光ビザ発給条件が、今年7月1日より大幅に引き下げられました。

発給対象を富裕層から中流層(年収6万元(約79万円程度))にまで拡大することで、中国からの訪日観光客数を1600万人にまで伸ばしたい! そう岡田克也外相は語りました。

今や日本でショッピングやグルメの食べ歩きをするのが当たり前となりつつある中国人観光客を見たとき、ふと振り返った一昔前、ハワイやアメリカ、ヨーロッパでカメラを持ち独特の形相で団体行動をとりながら買い歩きをしていた頃の日本人観光客を思い出しはしませんでしょうか。

また一人っ子政策のひずみが現れていることも社会問題化してきています。

90年代生まれの一人っ子大学生たちは、贅沢な消費をすることで、盲目的な見栄の張合いになっているといいます。

「親たちは口では子どもが節約することを望むと語るが、何千元もするカバンや、数百元の文房具、高価なデジタル製品まで子どもに買い与えている。子どもが学校で高価なものを持っていないことで、「メンツ」が潰されることを恐れている。親の行動は子どもの消費観と価値観に悪い影響を与え、子供たちの誇示する心理と互いに張り合う心理を助長させている」


贅沢な生活や親たちの甘やかしはエスカレートしてしまっているようです。


「流行語で読み取る激変の中国」に現代を映している様子が描かれていましたので、抜粋して紹介してみます。
現代中国人の感覚や価値観の一端を垣間見ると同時に、彼らのユーモアを味わってみましょう。



◆「就算是believe,中間也藏了一個lie」
 意味:たとえbelieveであっても、その中にlieが隠れている。
 注釈:英語の「believe」は信じること、「lie」はうそ。中国人は、お互いに信用しないことが多い。どんな事でも誰であっても、軽率に信用してはならないとしている。この流行語は、英語を巧みに利用して中国での信用危機を表している。


◆「人不能在一棵樹上吊死,要在附近幾棵樹上多死幾次試試」
 意味:人間として、ただ一本の木で首を吊ってはならず、周辺の幾本の木で何回も首つり自殺を試みなければならない。
 注釈:「人不能在一棵樹上吊死」とは、行き詰った状態でもひとつの事に固執してはならないという意味のことわざ。行き詰った境地にある者を見て、他人がはやし立てる様子を表現している。他人の不幸を楽しむという歪んだ社会心理が伺える。


◆「走別人的路,譲別人走投無路」
 意味:他人の道を歩み、他人が歩める道をなくす。
 注釈:「走自己的路」は、他人から何を言われようと自分の道を歩むべきだという慣用句。「走投無路」とは、行き場を失い窮地に陥るという諺である。この二句をつなげて、エゴイズムが氾濫する世の中を揶揄している。


◆「一睡醒来,天都黒了」
 意味:一睡して目覚めたら、すでに暮れていた。
 注釈:「昼夜転倒」と言われる若者たちの、日常生活を表している。


◆「不吃飽哪有力気減肥啊?」
 意味:いっぱい食わないと、ダイエットする体力がないのではないか。
 注釈:ダイエットをする食いしん坊の言い訳というより、本能と理想の矛盾が表出した社会現象を揶揄する時にも用いる。


◆「我充許你走進我的世界,但決不充許你在我的世界里走来走去」
 意味:君が私の世界に入ってくることは許すが、私の世界の中で行ったり来たりすることは許さない。
 注釈:この流行語は、自我と他人、許可と制限などを指すものだが、さまざまなことにたとえて言い表すことができる。


◆「工作的最高境界就是看着別人上班,領着別人的工資」
 意味:最高の境地にある仕事とは、他人の勤務を監督しながら他人の給料をもらうことだ。
 注釈:この流行語は、必ずしも管理層の人たちを指すわけではない。中国では、これと似たような例が実に多いのである。

                                    大紀元日本より一部引用


日本と共通している内容も、少なくないように思いました!

時代はいつも変化していきます。

       

社会は新しいものを手に入れ、古き良きものを失い、進歩し続けていきます。

しかし人間は変化するかたわらで、普遍を求めます。
永遠に変わらないものを見つけようとします。

愛のなか、真理のなか、文学や神話のなか、学問のなか、魂のなかにある普遍性を守ろうとします。失うまいとします。

伝統や文化の中にも、忘れていた宝物がたくさん隠されてあるのだと、思いませんでしょうか。



  • 2010.09.07 Tuesday
  • 20:56

社会・規則

しつけとおしつけ

JUGEMテーマ:育児


渡辺和子著書 「美しい人に」という本に「しつけとおしつけ」というエッセイがあります。


渡辺和子さん(昭和2年生まれ)は、学校法人ノートルダム清心学園の理事長でカトリック修道女シスターとして、様々な講演活動や執筆を行なっていらっしゃいます。

                    

このエッセイを読んだ当時、私は子どもたちのしつけ真っ最中でした。

子どもを躾けるってどうやれば上手くいくの? 
どこまで厳しく何を真剣に教えなくちゃいけないの? 
スパルタ式がいいのか放任のように自由にさせるのがいいのか正解はあるの?!…


子育てとしつけにも成功・正解はあるはずだと信じて、貪欲に知識を求めていた時期でもありました。

ところが毎日の生活では、どんなしつけ本に書いてある通りにもならず順調には思えないことばかりが続きます。子どもは怪獣だから。そこでまた不安になったり葛藤したり、叱り付けては自己嫌悪に陥ったりと母親としての苦悩は続きました。


そんなときに出合ったのがこの本でした。
本文より引用してご紹介しましょう。


 しつけというものは元来、和裁をする時に縫いにくいところ、しかもその箇所の出来、不出来で仕立ての腕が問われるような、いわば急所というべきところにかけられるものである。したがってどこでもかしこでもかけるものでないし、また、むつかしいところにかけるために、忍耐と技術が必要だということは、そのまま子どものしつけにも当てはまることである。しかし何といっても、しつけにおいていちばん大切なことは、それがいつかは取り去られるものであり、しつけの意義は「かける」ことにあるのでなく、取った後に美しい姿が無理なくあることだという点であろう。今日、子どものしつけに金糸、銀の糸を用いてかけている向きがあるが、これはその趣旨にもとり、子どもの美しく自由な姿を願う心よりも、むしろ自分の満足、見栄のためにかけているようなものである。

 ほんとうに自由な子どもとは正しく選ぶことのできる子どもである。人間の自由とは根本的に「選ぶ自由」だということを私たちは忘れてはならない。

 しつけとは本能的、衝動的な人間の行動を抑えて、自分にとってほんとうに為になる行動を「自由に」選ばせる自制心を養うものであり、その意味で自由を守るものでこそあれ、それを侵すものではない。

 子どもたちの欲求をすべて、即座に叶えることは不可能なことであり、また、してはならないことでもある。自分中心に世界が動くものだと考える子どもたちに、残酷なようでもそうでない事実を知らせてやらねばならない。
子どもの欲求を抑圧してはならないと言った信念のもとにしたい放題をさせる親や、教師があるとすれば、それは子供の「したい性」をのばすものであっても「主体性」をのばすものとは言い難い。先に述べたように「自由」とは子どものしたい放題にさせることでなく、したがることと、そうでないこととの間で選ばせる「自由」である。

 私たちの生活の中の喜怒哀楽というものも大部分、自分が怒り悲しんでいることの本当の価値を見定めることによって霧消し、自分を有頂天にさせていることのこれまた本当の価値を考察することによって冷静に、そして謙虚にさえなれるのである。要求についても同様で、私たちは自分の欲求が本当に必要なものなのかを見究めることを忘れてはならないし、面倒をいとわず見究めることこそ「しつけ」なのである。
しつけの目的は「しばる」ことでなく「解放する」ことであり、その自由さは孔子が論語に述べているように「われ七十にして、心の欲するところにしたがえどものりをこえず」といった心の自由さを意味するものである。

「美しい人に−愛はほほえみから」PHP研究所 一部引用


「しつけ」がいつの間にか「おしつけ」になっていたり、自分の満足や見栄を含めた親のエゴになっていたりあるいは解放でなく束縛になっていたりしてはいけない!と教えてくれた心に落ちる教えでした。



それまで何だか張り詰めて頑張っていた心の荷がふっとおりたようで、気持ちが楽になった記憶があります。


今ではその子どもたちも私を上から見下ろして「わかってるから!」と言って出かけていくほど成長しました(*^^)v


当時を振り返りながらこの文章を再度読み返して思ったことは、占いもしつけと同じ意義・目的があるのかもしれないな…ということでした。


占いによって運命を選ぶ自由を感じ、本当の欲求が何かを見究めてそれが必要かそうでないかを考え、心を解放することを目的となるならば、占いは運気を知り己のあるべき道を知る素晴らしい叡智だと思います。 しかしいつの間にか占いがおしつけや縛りになってしまっては、元も子もありません。

マヤ暦の占術にも、同じような自由観があります。

誕生とともに与えられ、自ら選んで生まれてきた魂の刻印である「デイサイン」を、どのように生かすかは一人ひとり個人の自由意志に委ねられています。


同じサインの一族でも「聖人」のような良い人もいれば、悪人もいます。その違いはナーカルデイサインが本来持っている運命の力を、プラスの方向へ用いているか、生命力を萎えさせる悪や死のマイナス方向に用いているかの違いによるわけです。

どちらを選択するのもその人の自由です。


しつけとおしつけが教えてくれた本当の意味に再び出会えたようで、あるいは自らを律する大切な教訓にマヤの自由観が出合ったようで、あらためてしつけの大切さを実感した私でした。


  • 2010.07.23 Friday
  • 16:20

社会・規則

みんなおんなじ…



みんなおんなじって安心よね、ママが言った
みんな一緒って嬉しいよね、ママが言った…
どうして?って聞いたぼくに、ママは言った。
いじめられたり、仲間はずれにされることもないし、
特別扱いされることもないもの…!

ねえママ、ぼくはみんなとおんなじなら、ぼくじゃあなくってもいいよね?
ねえママ、みんなおんなじで安心なら、心配かける子は悪い子なんだね?

ぼくはみんなとおんなじでいたくないけど、
ぼくのママが死ぬまでは、みんなとおんなじでいなくちゃいけないね。
だって、ママはみんなとおんなじでいて欲しいんだもんね。

こんな詩を読んで、皆さんはどう思いますか…
私にはぼくの気持ちから胸に突き刺さるほどの苦しみと絶望を感じます。

成績が悪いと怒る親…
口答えや反抗をすると、生意気だと怒る親…
自分の考えを子どもに押し付けて正当化する親…
子どもを自分の奴隷のように躾けようと躍起になる親…

自分で生んだ大切な子どもなのに、いつの間にか子どもを自分という
檻の中に閉じ込めてしまっているのに気がついていない…
そんな親の犠牲になる子ども…

みんなとおんなじでいいとは思っていないかもしれない。
でも、私は言いたい。
自分が子どもに押し付けている価値観は、本当に正しいのですか?
親がそんなに偉いですか?
たかが20〜30年程しか年が違わない子どもに、歴史を語って楽しいですか?

子どもの心を傷つけているのは、他でもない親なのです。
親の心無い言葉に傷ついているから、人を傷つけることに慣れてしまうのです。
親の気持ちを一番理解して、愛して、従うよう努力しているのは、
子どものほうです。
親がみんなとおんなじでいて欲しいと思えば、従うか、逆らうか、家を出るか親を殺すかしかありません。
子どもにそんな選択を強いていいのでしょうか?

親も子も人権は同じように尊重されるべきだと思います。
子に苦労をさせたくない親の気持ちゆえに、子どもを枠に閉じ込めるのは、
罪です。

あなたは子どもの心と命を守れますか!―いじめ白書「自殺・殺人・傷害121人の心の叫び!」
あなたは子どもの心と命を守れますか!―いじめ白書「自殺・殺人・傷害121人の心の叫び!」
武田 さち子

もっと親が子どもを尊重することを学んだら…
もっと親が子どもを服従させることを止めたら…
もっと親が自然に子どもを許せることができたら…
もっと親が未来を見つめて、子どもを悪に立ち向かう姿勢を示せたら…

子どもは自殺やいじめから、解放されるかもしれません。
子どもは人をなめたような態度をやめるかもしれません。
もっと子どもは夢見ることに希望を抱けるようになれるかもしれません。

子どもの心の叫びに
もっと耳を傾けてください。

  • 2006.12.07 Thursday
  • 21:09

社会・規則

何が楽しくて…


何が悲しくて、人は人を傷つけてしまうのでしょう。
何が楽しくて、人は社会に反抗してしまうのでしょう。

息子の自転車が、半年ほど前に誰かに持っていかれてしまいました。
鍵をかけていたにも拘らず、駐輪した場所と周辺には無かったのです。
息子の責任ではなくても、息子に私は管理不足の責任を負わせました。
息子は我慢しました。
友達と遊びに行くときは、後ろに乗せてもらったり、
帰りには長い距離を歩いて帰って来たりして、過ごしていました。
次第に遊ぶことからも遠のきがちになりました。

私はそれではいけないと思い、半年たったつい3日ほど前に
購入することを許しました。
息子は喜んで、友達と新しい自転車を探しに出かけました。
決まった金額で、自分の気に入った自転車を探したようです。
銀色の大人が乗れるサイクリング二輪車を嬉しそうに購入してきました。
友達と早速遊びに行ったのを見て、ホッとした気持ちでした。

今日も息子の友達が遊びに来て、一緒に出かけるようでした。
「おお、新しい自転車買ったのかよ〜良かったなあ〜〜!」
と言われ、何とはなしに嬉しそうな息子。
しばらくすると息子は友達と消えていました。
外を見てみると自転車は残されています。
「あれ?どうして自転車で行かなかったんだろう…?!」
気にしながらも、忙しさにすぐに忘れてしまいました。

夕方息子が帰ってくると、ポツリと言いました。
「自転車、前も後ろもパンクしてる。」
「ええっ〜〜!?」
私は飛び出して、自転車を確認しました。
確かに前後のタイヤはペコペコでした。
すぐに空気を入れてみました。
でも、完全に切り込まれていたようで、まったく空気が入りません。
新品の自転車、まだ数えるほどしか乗っていません。

息子は何も言いませんでした。
私も何も言えません。
ただただ怒りと悔しさを抑えるのに精一杯だったからです。

私には見えるのです。
心の貧しさと怒りが。
心の憎しみと荒んだ精神が。
親がいけないかもしれない。
環境が悪いかもしれない。
ついてないのかもしれない。
悔しい何かがあったのかもしれない。

心の醜さと混沌と愚かさが渦巻くように取り巻いて、
悪事を働いたその人格の良心を覆い隠してしまった悪魔が。

悪い事をするのは、誰にも可能性ってあるんです。
明日はわが身で、腹いせに人の自転車を傷つけることだって出来るのです。
でも…
良心が健全なら、それを人は抑えるのです。
良心を育ててくれた親がいるのなら、それは守られるはずです。

私に見える悪の姿は、あまりにも混沌と絶望が強すぎて
語っても聴く耳をもぎ取られてしまった耳なしほう一のようです。

息子の自転車を見る眼に優しさと悲しさと悔しさが映りました。
私は息子がこの悔しさをどう処理してゆくのか、見守りたいと思います。
パンクはもちろん直してあげようと思います(*^_^*)
  • 2006.11.26 Sunday
  • 19:57

社会・規則

自殺 子どもが次元上昇中?1<Part2>

11月7日に引き続き、Part2として子どもの次元上昇について格闘してみようと思います。
神の啓示によって天界を見た、かの有名な神秘家スウェーデンボルグの研究論文や著書を読んでいて、意識と人の概念について面白い発見をしました。


私自身かつて啓示を体験をしたとき、その圧倒的な神的エネルギーの力と意識が意識でなくなる瞬間を目の当たりにして、それが一体何を意味しているのか理解出来ませんでした。
その後様々な資料や文献を紐解いていく間に、私は神秘の構造について次第に理解出来るようになりました。そして全ての真理は一つに繋がっているのだということを発見したのです。
それは宗教でも文学でも心理学でも化学や天文学でも同じ源泉にたどり着くということでした。

私にはそのことを表現するための言葉が当時ありませんでした。
自分の見た別次元の世界をどのようなことばで表せばいいのか、精神が錯乱していないとどのようにして証明できるのか夢中になって探しました。
そしてやっと自分にとって一番心地よい居場所を見つけました。
それがユングの元型に近しく、無意識の構造にもっとも類似している世界でした。

さて、前置きはこれくらいにして、スウェーデンボルグの話しに戻ります。

彼は「意識」は拡大したり収縮するというのです。それはまるで呼吸をするように出たり入ったり伸びたり縮んだりするものだというのです。
また、私たちの意識は、霊界と現世界を区別する境界線を自分の周りに引くことで、身体的存在である自分を保っていられる。さらに新しい物質を取り入れ、古い物質を排出する全エネルギーの場の一部であり、ちょっとでも意識のレベルが動いたとき、霊界の存在はその姿を見せるのだというのです。
(神の摂理から)

つまり、私という意識は、境界線の内側にあり、その境界線を引いているのは私の意識である。でも、仮に自分の意識を離れることが出来れば、それは境界線の外側へでも自由に行くことができる。何故なら境界線は自分の意識が作り出しているだけのものだから。
ということになるでしょう。

とすれば、意識の絶対的な概念は実は存在しない。ということなのです。

また、天界と実在界の間には波動が交差していて、神的なエネルギーは常に各個人の中へ平等に流入しているのに、善人の内側にある善いものによってそれは受け入れられるのに、悪人の中には受け入れられない。悪人たちはそのエネルギーを拒絶するか、抑圧するか消滅させてしまうかである。
というのです。

それがもし事実だとしたら、悪のサイクルは止まるところを知らず、現代のストレス現象が人間の幸福に及ぼす影響は計り知れないに違いありません。

私は自分のサイトで自分自身の「無意識の世界」を描いているのですが、それはこの神的なエネルギーを解放し、自分の善の心を取り戻して、その中に天界からの波動を流入させることが必要だと思っているからです。

子どもたちが自殺するのは、次元が上昇しているからだと前回で述べました。それは子どもが純粋だからです。
子どもは自分自身の意識でまだ意識の境界線を周りに引いていません。
自我の芽生えと反抗期を通り、愛を確かめながらこの世界で生きていくための自信をつける時期だからに他なりません。
実在界で生きてゆける自信もなく、傷だらけになり、夢も希望もなく、自分ひとりでは生きてゆけない、そんな子どもの心には、もう天界からの神的エネルギーは入れないのです。自らの境界線を自分で引かない限り助かる道がないと考えてしまうのです。間違ったやり方です。
でも、それに気づいてあげない大人がいけないのです。

子どもは大人よりはるかに霊的な水準が高いのです。
魔術師のように霊的な力を悪に使うことだって可能なのです。
だからこそ、大人は悪で子どもを訂してもダメなのです。

神的なエネルギーが充満しているところに悪は混入されません。
生きる力の源泉を持つのと同じだからです。

スウェーデンボルグはまたこんなことも教えています。
神は常に人と一緒にいるけれど、苦闘しているときの個人は神とは分離し、疎外され、孤独であるように感じるであろう。と。
神に近づいていく過程で、人は神の愛と真理のゆがみに直面し、かくして悪と虚偽の世界に引き込まれる。正しいこと、善いことをいかに認知し選択するかを学ぶのは、真の闘いである。と。

神話があるのは何故ですか?
おとぎ話や童話には真実が姿を変えて寓意となって入っているのです。
だから子どもに本を読んで聞かせるのではないでしょうか。
神話素には神的な世界を子どもに思い出させ、安心感を与えるために必要な魅力的な愛と豊かさがたくさんあるのです。

現実の世界がどんなに苦しくても、未来に必ず光があると信じられなければ、境界線を越えてもと来た道を引き返すことになっても、それはその子のせいではないのです。

霊的な世界のことを少し高い視点から学ぶことで、違った子どもの形相や精神が見えてくるはずなのです。
悪霊だとか、心霊だとかオカルトだとか言って逃げ出したり冷やかしたり誤魔化したりしないで、もっと真面目に精神世界のことを学ぶ大人が増えるべきです。
未来の子どもたちを救うためにも。
  • 2006.11.22 Wednesday
  • 21:22

社会・規則


死…人がこの世界に生まれて来たときから全ての人間に平等に訪れる真実
死…死が意味するものは、死という現実に直面したときになってやっと考える

自殺や他殺による死、交通事故死、病死…様々な要因で人は死をむかえる。
毎日のようにトップニュースの座を占めるいじめによる自殺報道。
日本で何かが狂いはじめていると感じてしまうほど、死をめぐる事件は連日後をたたない。

一つ真実に寄り添う事実を見つけた。
人が死ぬことをどのように考えるかは、それぞれが異なる見解と認識を持つということ。
死をどのように扱うかも、それぞれが自由に選択できるということ。

昨晩、管理人である私の95才になる祖母が亡くなった。
呼吸不全と心肺停止、意識もなく眠るように亡くなったらしい。
子どもが4人、孫は12人、ひ孫に至ると20人は下らない大家族を生み出した祖母は、その生涯を終えた。お疲れさまでした。

ところが、その祖母の死に対して、子や孫はそれぞれ異なる見解を持っているのだ。

死後まもない祖母の魂はまだ地上にあるから、遺体を弔うことを安易に考えてはならないとする者
死んでしまったのだから、遺体はただの抜け殻だとする者
生きている間にちゃんと遺言を残さなかった祖母が悪いと開きなおる者
天国に帰って今頃は祖父とともに安らいでいると見守る者

祖母は死を通して、大家族に何か大切なメッセージを残してゆこうとしたのかもしれない。

自殺も他殺も病死も事故死もみんな同じではないのだろうか。
死を通して何かを伝えようとするから、自殺をするのだろうと思う。
謝罪? 復讐? 悔恨? 正義? 自己主張?
死を通してしか伝えられないと、その人間が考えたから死を選択しているのではないだろうか。
病気になることも、事故も避けては通ることのできない偶発的な不可抗力の災害に近い。
何かを伝えるために、それらが起きていると考えることで、生き残った者たちは救われるかもしれない。

生があまりにも残酷で、苦痛と悲惨に満ちていて、肉体も精神もぼろぼろに近い状態だとしたら、死を考えてしまうのはある意味自然なのではないだろうか。

今から20年以上も前、ある出来事を機に子どもの不甲斐なさに責任を感じていた知人の父親が、「身をもって子に父としてのことばを伝えたい」ということばを残して、身体は元気だったはずなのに、突然脳溢血を起こして亡くなったことがある。自殺ではなく、偶然の突然死である。
その父親は自分の死を予知して、そのような事を言ったのだろうか?
あまりにも偶然すぎて驚いたことがある。

死は生ある者に対するメッセージなのだ。
人を死に追い詰めるような、社会も学校も地域も家庭もいけないにきまっている。そして自殺を考えないような社会のしくみや構造を考えたほうがいいに決まっている。体制やシステムをもっと時代の問題に合った構造に変えたほうがいいに決まっている。
でも…
しかし…
死がある限り、生ある者はその死の意味とメッセージを深く、真剣に考えなくてはいけないに違いない。
死は決して終わりではない。
死は何かを解決してくれるわけではない。
死が伝えてくれるとしたら、それは「心のメッセージ」なのだから。
  • 2006.11.13 Monday
  • 14:42

社会・規則

子どもの本音



教育者は子どもの本音に耳を貸すべきです!

子どもたちの次元が上昇中 の記事でも書いたのですが、今子どもたちの精神が間違いなく上昇しています。
心の中にある本音をありのままに出せるのが子どもです。
子どもにはまだたてまえだけで生きることは出来ないからです。
そして、本音を育てているのは親や学校、社会です。
無名で肩書きもない私がこのようなことを言っても、誰もまともに受け取ってはくれないかもしれません。
でも、これは本当だからどこかで伝えていかなければならないのです。

私はこの4年間、ほとんど毎日心理学をはじめとして、哲学、思想、人文学に歴史、宗教学神学、古文書、象徴哲学、教育などたくさんの資料や文献を学んで研究してきました。人の心がどのようにして智慧を獲得するのか、人の心に対立する矛盾や真理はどうしておこるのか、愛と憎しみはなぜ同時に存在できるのか、人の死の意味は一体何なのか、世界創造の神話は何を語ろうとしているのか、歴史に名を馳せた人たちは、何を掴んだのか、などなど…

それは何の為にかといえば、本当のことが知りたかったからです。
人が生まれてきたことには必ず意味があるはずだと信じているのです。
そうでなければ、生きているのは無意味なことだからです。
「生きている、ただそれだけで素晴らしい!」
なんていうのは、ただの応援歌です。
自分が生きている意味を探すためには、人間の隠し立ての無い本音の姿を知る必要があったのです。
悪も欲も死も生もすべて含めた本当の姿です。
それを知らない限り、自分の生まれてきた意味を知ることが出来なかったからです。
裏を返せば、それが見つからなければ自分には生きることができなかったからとも言えるのです。

そして多くの書物を紐解いて、一つの真実の姿を発見したのです。
それこそが真実だと自分では認識できたのです。

だからこそ思うのです。
子どもや幼子は大人とは違うのです。
子どもは親の鏡だと昔からよく言われています。その通りなのです。
子どもがいじめをするのであれば、親がいじめに共感しているからです。
それはどういうことかというと、親がまだ虐めの世界を脱していないということです。いじめということばをこれほど深刻に捉えるから、子どもはいじめを深刻化しているのです。
誰でも大人なら、一度や二度は虐めたり虐められたりしてきたはずです。
でもその事から脱してきたはずです。
それを思い出すべきです。
いじめを深刻にして、親が毎日子どもに
「今日は虐められなかった??」とか
「教室でいじめはなかったの?」とか
話題の中心に自殺やいじめを持ってきてはいませんか?
または、親が子を無視して虐めていませんか?

そんなこといくら考えても無駄です。子どものほうがよっぽど親よりも自分の心に正直に向き合っているからです。
子どもが親の鏡だと言われていたはずが、
今では親は子の鏡になりつつあるのです。
子どもの霊性が上昇しつつあることで、親の霊性は子どもの霊性についていかれないでいるのです。

子どもは自分の思うとおりに大人を動かしています。
「ちくり」「告げ口」「嘘つき」「ごまかし」「あざけり」「からかい」
「大人の弱み」「大人の醜さ」「大人への復讐」

これらを巧みに操り、親や教師を振り回します。
先生の弱みを握った子どもは、親の弱みも握っていて、両者を自分の思うままに操作しているとも言えるのです。

それが親が子の鏡になっている状態です。

でも大人は誰もそのことに向き合っていません。
あまりにも情けない霊性だとは思いませんか?

大人が思うほどに子どもはバカではないのです。
本当に苦しんでいる子の味方になってあげるためには、
どの子がまやかしで、どの子が助けを必要としている子かを見極めなければなりません。
それが出来ずにうろたえているのは愚かな大人です。

それを楽しんでいる子はどんどんと傷が深くなります。
霊性が上昇するということは、良い霊性だけでなく、悪い霊性も上昇しているということです。
霊性は共時性によって他の子どもたちにも連鎖します。
共感を生み出します。

どうか大人たちよ、子どもの心をもっとまっすぐ見つめて下さい。
疑いや、ベールのかかった眼で見るのではなく、ありのままの子どもの
心を見てあげてください。
信号を発しているはずです。
隙を見せているはずです。

一緒に空を見てあげてください。
一緒にふざけっこをしてあげてください。
中学生だろうが高校生だろうが、抱っこしてあげてください。
叱り飛ばさず、大事に聞いてあげてください。
間違っていたら真剣に諭してあげてください。

大人が霊性を上昇させるか、子どもの悪の霊性を良い霊性に変えるかしか今の子どもと対等になる道はないのです。

上昇中の子どもにとって、死なんてそんなに怖いものではないのです。
復讐してやろう!くらいの軽い気持ちでも死を選べるのですから。

  • 2006.11.11 Saturday
  • 22:34

社会・規則

自殺 子どもが次元上昇中?!



自殺を考える子どもの霊性が上昇しようとしている?!

自殺という言葉の意味や重さの認識の仕方が昔とは違ってきています。
今の親世代が子どもの頃には、自殺する子どもは滅多にいませんでした。
問題を起こしたり、悪さをしたり、いじめっ子やガキ大将はいても、子どもの心の中で「自殺してやろう!」などという想いは現れることが極めて少なかったはずです。
では、
自殺を考える子どものこころに問題が生じているのでしょうか?
自殺を考える子どもに原因があるのでしょうか?

私は違うと考えます。

私たち人間は、生まれたままの意識の状態は非常に純粋な動物性本能を持っています。
純粋な動物性本能とは、たとえば幼い子どもがお砂場遊びで、砂を食べたり、よその子のおもちゃを勝手に使ったり、自分のものを貸さないこともそうですし、一緒に遊んでいる子を押し倒したり、引っ掻いたり叩いたりなどは、親がしつける以前に発生する本能に近い行為です。
でも、これらは意識して意図的にされているものではないのです。
だから「純粋な動物性本能」なのです。

生まれたときのこの「純粋な動物性本能」が理解されないまま、大人に押し殺されたり、しつけとしてきつく叱られるだけで育ってしまうと、子どもはそれを「無意識」の領域にしまいこみます。これも本能が為せる仕業です。
そして子どもは次第に「してはいけないこと」と「してもよいこと」を憶え始めるのです。いわゆる人間としての成長過程を歩み始めるわけです。

ところが、この「純粋な動物性本能」がしまわれているままになっていることを大人は忘れてしまいます。そして小学生や中学生になったわが子を「いい子」として又「普通の子」として見ているのです。

これが大きな落とし穴なのです。

人の心は正直で繊細なものです。
少しのことで傷ついたりします。

人間が動物であることを忘れていませんか?
人と動物の違いは、頭脳と心と霊性によるものがほとんどで、あとの肉的な本能や欲望はほとんど動物と同じです。

純粋な動物性本能を持っている子どもを「悪い子」と認識したのが間違いの始まりだと思うのです。
人間であれば、道徳的なルールがあるのでそれを子どもに教えることは大切です。それを間違いだと言うのではありません。

幼い子どもの純粋な動物性本能は、非常に霊性が高いのです。
無意識と意識がまだ分離していないのです。
頭で考えて行動しているわけではないのです。
無意識に砂を口に入れたり、人のものを奪い取ったりします。
興味の一環なのです。

霊性が高いというのは、どういうことでしょうか?
解りやすい言葉に置き換えると、
「悪気がない」
「無邪気」
「良い悪いの判断を基準にしていない」
「自分の環境に左右されていない」
「心と肉体が一体化している」
などです。

ところが、大人がこの純粋な動物性本能を理解しないまま、子どもの意識に人間としての道徳やルールを与えてしまうと、子どもの高い霊性は、一気に下降させられてしまい、先ほど述べたように無意識の領域に閉じ込められてしまいます。
そしてじっと眠ったままか、しまいこまれたままになっているのです。

自殺やいじめ、キレるなど現代の子どもを象徴するかのような言葉の源泉は、この純粋な動物性本能が無意識から意識に浮上していることを暗示しているのです。

自分の霊性に敏感な第一期…小学校高学年や中学生の頃を指しますが、この頃に子どもは自分の無意識に潜んでいる「純粋な動物性本能」と対決しなければなりません。幼少時に解消されないまま無意識層に潜んでいたこの本能は、容赦なく子どもの心に対決を迫ってきます。

人間として育っているのに、動物性本能が顔を出すのですから、大人はうろたえてしまうのです。
そして「悪い」「常識のない」「キレやすい」「わがまま」「単純」などと
大人たちに評価され、どうしようもない、やり場のない心の状態になってしまうのです。

幼いときに「純粋な動物性本能」を理解された子どもは、動物性の自分と人間としての自分を両方意識に浮上させていても、大人や様々な力や助けを借りながら、上手く統合させていくことが出来るのです。
間違っても、キレても、統合させる道を歩みだすことができるのです。

自殺をすることが、良いか悪いかなど、自殺をしようとしている子どもには関係ないのです。
大人の常識で判断しても理解出来ないような、別の次元に意識が行っているからです。
理性や言葉など、まったく通用しないのが動物です。
動物性の本能は、純粋から一転悪魔的な形相に変化して、再び霊性に敏感な第一期に現れてきたのに過ぎないのです。

心が分裂し、意識と無意識の対決に苦しみ、葛藤と苦悩の連続状態が子どもを襲っているはずです。

どんな慰めや励ましも、霊性が上昇しつつあるときは無力なのです。
ひびが入って壊れかかったワイングラスと同じ状態です。

壊れてしまったほうが楽なのです。
でも…自分で壊すのは怖い…

そのような子どもは、次元が上昇している状態…つまり自分の霊性を取り戻そうともがいている状態なのです。
別の表現で彼らのいる所を捉えようとすれば、常識や道徳、決まりや価値観などのない世界で生きているのです。
そのような次元では、人間として言葉によるコミュニケーションは不可能です。

大人はそのことを理解していません。
理解出来ない人が多いのです。

純粋な動物性本能を消化しきれていないまま、自分の霊性に敏感な第一期を迎えた子どもたちは、昔と比べて増えています。

その原因は多くあるでしょう。
社会的要因、環境要因、生活習慣の変化、核家族化、一世帯当たりの子どもの出生率低下、国際化、競争社会の歪などなど…
また、大人の親認識力不足、責任感の低下、無教養、快楽主義…

誰が悪いからではなく、現状をしっかりと認識するべきです。
そして、今次元上昇しようとしている子どもたちを、人間として統合できるような正常な道へと引き戻してあげるために、大人はどうすればよいかを真剣に考えるべきです。

〔次元が上昇することは、多くの意味と認識方法があるのですが、ここで述べている次元上昇は、精神世界的な次元上昇とは少し違います。
霊性の次元について、古代密儀における象徴体系や古文書原典にあるような神聖な教義に近い意味での霊性を指して上昇を捉えています。〕

  • 2006.11.07 Tuesday
  • 09:40

社会・規則

仮想空間に生きる人間


インターネットの世界

インターネットの普及率は携帯電話とともに、この5年程の間に驚異的に増加しました。
私たちの生活にとって、欠かせないほどの存在にまでなりつつあります。
光やブロードバンドが普及する以前のインターネット接続は、ジレンマだったり、コストがかかり過ぎだったりして、中々思うように扱うことは出来ませんでした。光の世界が広がってからは、思うようにインターネットを操ったり遊んだり出来るようになり、益々使いやすくなりました。

ネットの中にある世界を垣間見て、自分もその世界の中で情報を得るようになってみて、あることに気づきました。

それは「仮想空間に存在する別次元の世界」です。

コンピューターと人がコミュニケーションを取れる!ということです。
雇い主である「人間」は、働き手である「コンピュータ」にちゃんとお互いが分かり合うための言語を使って、作業指示をする。(プログラム開発)
すると、その指示に忠実に従うコンピュータがいて、しかも彼は一般大衆に向けて様々な商品や情報を提供している企業としても優秀である!

売りたい人も買いたい人も出入りするデパートのようでもあり、それぞれが日記をつけたりホームページで個性を主張できる。
難しい気象予測をするための言語もあれば、電気製品の制御を司る言語も指示体系も存在している…

これはちゃんとした「世界」です。
「日本」「アメリカ」と同じような国家機能をも持ち合わせ、人と人が出会い、話し、売り買いし、楽しむ…。
仮想社会空間ですよね。

私がブログやHPを始めたときは、さすがに別世界的でした。
まるで言葉が全然わからなくて習慣も社会も違うアフリカに来たみたいでした!
でも、そこに住んでいるうちに段々と言葉が理解できるようになり、社会の習慣にもなれてきます。アフリカ人の友達もできて、遊びに行くこともできるようになりました。
アフリカっていいとこだな…なんて思えるようになってくるのです。

欲を出せば、アフリカで一軒のお店を出してみようかな?!なんて気にもなるもんです。

アフリカをたとえに出しましたけど、それほどの違いを強調したかっただけですよ!

仮想空間は、次元も認識方法も現実社会とは違っています。
あり得ないような存在主張方法や手段もあれば、自分がいくつもの人格を持つことだって出来るのです。
まさに、次元を超えた世界です!!



プログラミング言語の一つ「Java」について読んでいると、
「すごいな〜〜!」
と感動しますし、「Flash」による作品を見ていると
「まさに仮想空間での芸術家〜〜!」
などど感激します。

単純なのかもしれませんが、本当です。
ゲーム世代に育った子どもたちは、すでに様々な技術や技法を経験として体得しています。その上、仮想空間で生きる「感性」も習得しているのです。
そのような若い世代が生き生きと暮らせる街が、仮想空間にはたくさん存在しているのです。

団塊の世代のお父さん、お母さん、ちょっとがんばれば仮想空間社会に住めるおじさん、おばさん、

ゲーム世代をバカにしないように!
インターネットの世界を誤解しないように!

彼らの言語や感性を理解しようとまずは見てみるように!
「俺は日本人だ〜〜!」
とか
「飛行機なんか嫌いだ〜〜!」
とか
「アフリカへなんて別に行きたくない〜〜!」
などと自己主張ばかりしないで、

「アフリカってどんなとこかい?」
とか
「アフリカは楽しいかい?」
とか、
アフリカのビデオを見てみるとか、
アフリカの何処が面白くて素晴らしいのかを聞いてみるとか、

人に耳を貸すもんですよ!

ちなみに私もインベーダーゲーム世代ですから、偉そうなことは
言えませんが…!!

でも、素晴らしさと仮想空間社会の現実を述べてみたくなりました。
(*^_^*)
  • 2006.11.02 Thursday
  • 08:52