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  • 2017.06.23 Friday
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忘却の河を渡る

チグリス・ユーフラテス河をはじめ、たくさんの河は生命を育むよう私たちの世界を包み、豊かに潤いを与えてくれています。
しかし時に河は、自然の産物ゆえ生命を飲み込むこともあります。

命あるものは創られたものに依存しないと生きられません。
そして自然も創造者のものであって、私たち人類が勝手に操作してよいものではありません。


私たち人間は二元性の中で生きています。
存在と非存在、有と無、生と死、善と悪、黒と白…のように、1が全てであったところから分離することで始まりました。
父なる神から子が生まれたようにです。


因果の法則も同じです。
原因があれば、そこには必ず結果が生まれます。
分離の世界があるのですから、永遠の世界もあります。
それらすべては生きることにおいては当たり前のことです。
ちょっとした思い方次第で、人生プラスにもなればマイナスにもなります。
かといって運命が司っている領域は自分の思うままには変えられません。
苦悩と挫折も生きている以上は避けられない道です。
それらは全て「一定の真理に基づいて」遂行されているのです。


現世今生は魂の修行場です。


カルマの法則があるのも、神の愛があるのも、地獄のような苦しみや至福の幸せがあるのもすべて「魂の学び」のために存在しています。
人の魂が成長するために実は「真理」が大きな働きをしています。

マヤの宇宙観にもたくさんの「真理」があります。

古代マヤの人たちにとって「時」は循環して巡ってくるものでした。
未来も過去も同じ円周上にあります。
時計が円形を象っていて、12時からスタートして再び12時に戻るのも同じような象徴的意味を持っています。


魂は天界にいて人間界に「誕生する時」を待っています。

指導者と相談しながら、次の生の目的や使命を確認し、どのような環境が良いか、どんな家族が良いか、修行を通して乗り越えるカルマは何か、ナーカルと手を取り合うのに相応しい守護者は誰か、時代はいつがいいか、どの国がいいか・・・と。

そして永遠の世界から再び二元の分離の世界、時間のある世界へと戻ってくるのが「魂の旅立ち」の時です。

そこで非存在だった魂は存在する人間となり、永遠の世界から時間のある世界へと入り込むとき、大きな河を再び渡ります。
この河は人間が生から死へと移行するときに渡る河と同じです。(プラトンも著書『国家』で述べています)


この魂が「生」の世界へと河を渡り始めた時、永遠の世界で指導者と相談し、話し合って決めてきた事柄や全ての運命の道や流れを一つ残らず忘れてしまいます。

ここがポイントです。

「忘れている」だけです。記憶がなくなってしまったわけではないのです。
その記憶はどこに残っているのかというと、潜在意識・無意識の層です。

ふとした瞬間、あるいは意識が正常に保てないほど衝撃的なことがおこって身体を抜け出してしまったときなど断片的に思い出します。
また無意識層からメッセージが送られてくることもあります。

自分の使命や魂の修行の目的、直感を通して守護者から送られてくるイメージや指導などは、あらゆる場面でその人にサインとして送られます。
潜在意識はそれを伝える役目を持っているのだと思います。

魂にとって故郷を思い出すことは、たとえようのないほどの喜びです。
幸せというような言葉で表せないくらい至福の境地です。
そこにあるのは永遠の世界であり、時間のないせかい、二元性の分離が再び統合されて一つとなる世界への帰昇です。
これを「アセンション」ともいいます。

マヤの教えは、イメージやナーカルの特性を通して潜在意識に働きかける真理の力を持っています。
グノーシスという古代宇宙論にあるヌースへの到達も、錬金術というヘルメスの秘密の教えも、ピタゴラス主義者が2を1どうしの混合と考えていたことも全ての真理の奥義には、同じ構造が見え隠れしています。

マヤの暦やナーカルの存在は、単に占いにとどめることなど出来ないほど偉大な教えを持っているのです。

忘却の河を渡った瞬間全てを忘れた時のことを、生あるうちに思い出すことができ再び河を渡ることができてこそ、魂の修行を完成させることができるのです。
その時人はすべての魂と一つに結ばれることが出来ます。


  • 2010.07.26 Monday
  • 12:12

アクバル(夜)の光と闇

神が「光よ。あれ。」と仰せられた。
すると光ができた。

そして神はこの光とやみとを区別された。
神はこの光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。 
大きいほうの光るものには昼をつかさどらせ、
小さいほうの光るものには夜をつかさどらせた。 創世記1章

光はやみの中に輝いている。
しかしやみはこれに打ち勝たなかった。 ヨハネ1章


マヤ暦の神話では「夜」「闇」について、こう教えている。

夜 アクバル(Akbal)


アクバル


夜のサインを守護するのは「テペヨリョトル」という神。
「山の心臓」とも呼ばれ、ハートチャクラのエネルギーの人格化。

これは「世界山」そのものの内側にある霊的なエネルギーをあらわしている。そしてまたこの「テペヨリョトル」は火山をも支配していて、真昼の世界に噴出する心の無意識の力の象徴とも言われている。

アクバルは「神殿」「地下の暗闇」「大地の父の化身」を意味する、群をぬいてすばらしい智恵のサインである。

暗い洞窟…つまり、心の地下にある「闇の家」に住んでいて、絵文字や翡翠を守っていた神秘的な番人は、女性だったと伝えられている。

翡翠は古代中央アメリカ人にとっては、高価で魔術的な財産であり、絵文字で記された「聖なる書」こそ智恵の象徴であった。

この意味としては、「聖なる書」の智恵は、個人的な「闇の家」の奥深くでのみ発見されるものであり、そこへ人間である私たちは旅をし、闇という恐怖と直面し、エゴや自我を降伏させ、そして新しい誕生へと至る。
そしてその時、試練はすべて霊的な宝物に変容する。という神話としての意味をもっている。



一人の男性がいる。

彼は「夜・7」というサインを持ち、「夜」という暗闇の中で人生の大半を過ごしてきた。しかし彼の闇は普通の闇とは違っていた。



現実は恵まれている環境に生まれ、日本のトップ3に入る大学を卒業した両親を持ち、彼自身のステータスも頭脳も相当なものだ。

つまり、彼は昼の太陽光のなかで輝けといわれ続けた月であり、本当の闇も夜も光すら知らない「夜」自身なのだ。


無気力と無力感、捉えようのない不安と恐れが彼を捉えて離さなくなったのは小学校のときからだという。ある出来事がおきてから、彼は自分の扉を完全に閉ざしてしまった。

そしてひたすら望まれるままに、生きた。

自分の意思は決められた世界でしか使われることがないまま、スイッチの入った時限爆弾を自分の心に入れたまま、ただ時間を生きるしか道はなかったのだ。


本来信仰、知識、自然、科学、医学などの学問や芸術それら全ての光が照らすのは、闇の領域のはずである。

けれども、それらは彼の心の闇に光を届けられかった。



では人間社会の闇はどうだろう?

救ってくれるはずのない社会の闇に希望を抱き、彼は今度は逆走した。
女、セックス、ドラッグ、酒、暴走…

それらも「何か」を残しただけで、それが「何」かわからないまま光を見つけることはできなかった。

これらは愚かしいことだろうか?
私はそう思わない。

なぜか。

光が及ばないからこそ「闇」なのだから。
手当たり次第にもがいてみなければ、光が本当にあるのかさえわららない、見つからないほど闇に輝く光は小さいのだから。

どんなに光が闇を把握しようと、照らし出そうとしても
それは所詮無理なことに、人は気づかない。

では彼を救うことのできる光はいったいどこにあるのだろうか?


「闇」は「闇」が見たことのない「光」でしか「闇」を消滅することはできない。
「光」は「光」が見たことのない「闇」を認識するしか「真実の光」を知ることはできない。



「闇の中で、闇を把捉するような何らかの光が輝きはじめる」ならば、闇は消滅する。というのも、当の光がもはや闇の論理では解明できないような光であるときにはじめて、闇の光への憧れは満たされる。…つまり「闇が把捉したことのない光」だけが、闇を照らしだすことができる。 C.G.ユング

人間の精神を満足させる光がある。それは「神の尊厳の反射光」だ。
カウシヌスは教えている。


こう例えてみる。

彼の両親は「光」、彼は「闇」だ。

彼が今まで知ることも見たこともない両親の愛や光でしか、彼の闇を消滅することはできない。
そして両親は、両親がまったく予測できず知りえない彼を把捉することでしか、本当の光と愛を知ることはできない。
と。


ユングのいうように「闇が把捉したことのない光」で、カウシヌスが教えるように「神の尊厳の反射光」であることが、彼の精神の闇を打破する光になるはずなのだ。


ひとたび閉ざしてしまった心が開かれ光の世界に生きていくためには、自らを光に差し出す覚悟がないと、すぐに闇の力に引き戻されてしまう。
闇はそれくらい人を虜にする魔術と魅惑があるから。


古代マヤ人が神という光に生贄を捧げるという風習は、そういった象徴的意味があると私は思っている。

光の世界を求めるだけではダメなのだ。自分を光の世界に引き上げてもらうためには、自分を捧げる勇気と光の導き手が必要だろう。

黒曜石

私は彼の存在を通して「夜」に輝く本当の光を知った。
そして「アクバル7」というデイ・サインを通して、暗い洞窟で光っている黒曜石の美しさを知り、ハートチャクラエネルギーと冥界の智恵がどれほど素晴らしいものかを知った。

彼には今まで使ってこなかったサイン、闇の中に葬っていたサインがある。
「水13」のサインだ。
高価で神聖な石「翡翠」と「水」は、生命力と新鮮な驚きの感覚をもって、13の力で存在している。とてつもない芸術的なビジョンに恵まれているサインだ。彼にはその力を使う自由がある。


彼の闇が開けるのも、闇が把捉したことのない光が昇ってくるのもそう遠くはない。

今まで私がみたことのないような美しい光が彼の心に訪れるのだと、私は心から信じている。
  • 2009.08.22 Saturday
  • 17:49

乾坤花

豪雨の激しさに心驚きながらも、夏の訪れに胸躍らせていた私の耳にふと聞こえてきたのは

雨音をかき消すほどに強い「天からの言葉」でした。

「けんこんか」

なんだろう……

意味のない言葉などない、という信念に基づき
天からの言葉を調べ始めたのはすでに真夜中でした。



「乾坤一擲」
「けんこんいってき」と読みます。

中国の全唐詩にある故事の1つで「運命を懸けてのるかそるかの勝負をすること」という意味があるそうです。


竜疲れ虎困じて川原に割ち
億万の蒼生、性命を存す
誰か君王に馬首を回らすを勧めて
真に一擲を成して乾坤を賭せん

という詩に由来しているそうですが、

乾坤とは易の卦で、ここでは「天と地」のこと。
乾の乾は"天"を、坤は"地"を表していて、最後の”真に〜賭せん”の意味は、”さいころを投げて天(奇数)が出るか地(偶数)が出るか運命を賭ける” という意味なのだそうです。


影光花

さて「乾坤一擲」という言葉を調べながらその意味合いを引用してみると

「天と地に自分の運命をかけて挑む花」というように解釈できるのかな、と思いました。

さらに調べ進めると、今度は「乾坤院」というお寺が見つかりました。
愛知県知多郡にあるそうです。

乾坤院の由来には

「乾(戌亥)は西北、坤(未申)は南西の方角をそれぞれ表わす。今から500年余前の創建時、緒川城からみて、当山がその方角の中間に位置したため、この名がついたとい伝えられている。また「乾坤」が壮大な天地をも意味することから、山号を「宇宙山」とした由来がある。」
のだそうです。

また、宇宙山と呼ばれていた大明神には

「宇宙山乾坤院の境内にある宇宙稲荷大明神は、明応時代(1492〜1500)に出陣時の必勝祈願のために、伏見から緒川城内に勧請されてきた稲荷天です。現在は交通安全等の祈祷で賑わっています。徳川家康の母、於大は緒川城内で生まれ、このお稲荷さんのもとで育ち、知多民話「狐の嫁入り」の発祥のもととなりました。」
と書かれておりました。



「けんこんか」という言葉に何が込められていたのか、そして何を私たちに伝えたいのか、
感じたことをお話してみたいと思います。


現代の私たちは「のるかそるか」「生きるか死ぬか」「天と地に運命を懸けて」のような大勝負を体験しなくなりました。
賭け事は一般的に嫌われ、勝負に人生を左右されたり、勝負に命を賭けるほど没頭できる勝負事にめぐり合えなかったりするのか、勝負師は姿を消しつつあります。

確かに中国の故事が語るような、また出陣時の祈願と民話が語るような乾坤の世界に足を踏み入れるほどに強烈な勝負事はないかもしれません。


けれども私たちの日常は現代も勝負事の駆け引きが溢れています。
形を変えてはいますけれど、実は毎日「のるかそるか」「天と地に運命をかけて」宇宙山を登っているのではないでしょうか。


「受験」「就職活動」「恋愛」「結婚」「出産」「離婚」
さらに毎日は時間と仕事、育児や家事に追われて戦い続けています。

本気で挑まなければ負けてしまう。

逃げたくても逃げられない自分との大勝負
世界に人はたくさんいるけれども、自分との勝負に勝てるのは自分だけ。

クリスタル未来

そんな宇宙山に登る人間
「乾坤花」



八卦 易占いでは

【乾(ケン)】いぬい
天 健 父 首 西北 また、天・健・馬・首・父・君などを象徴する。とされており、
方角としては北西の方角になり、戌(いぬ)と亥(い)の間であることから乾は「いぬい」とも読まれます。

【坤(コン)】ひつじさる
地 順 母 腹 西南 また、地・順・牛・腹・母・婦徳・胃・補佐役・鈍重・大衆・迷いなどを象徴され、
方位としては西南、すなわち地支の未と申の間、ひつじさるを示す。といわれます。


また、風水では八卦乾坤銭は「物事を発展させる」「運気を上昇させる」という作用や
「財源不断」という財を呼び込む効果があると言われているようです。

このような言葉の意味を合わせて象っていくと、次のようになりました。

子のはな

天なる父と、地なる母に感謝し、首をまっすぐ天に向けて地に腹を据える。
迷いはあれど、乾坤一擲いざ君に向かいて 宇宙山を駆け登り
辿りつくのは未来に咲く「乾坤花」




そんな花にわたしはなりたい。


乾坤花


乾坤つながり

乾坤宝酒
乾坤漢方便秘薬
乾坤体操 不老長寿の体操
乾坤通宝 ゲームアイテム
うふふ

  • 2009.06.17 Wednesday
  • 16:27

長瀞と意味ある偶然

イチゴ狩り

秩父の長瀞に行ってきました。

そろそろ収穫も終わりをむかえている「イチゴ狩り」ですが、甘くて美味しい苺を思いっきり食べてきました(*^^)v


ハウスの中は暖かく、苺もしっとりジューシーです。
「もぎたて苺はビタミンCの含有率も全然違うのよ〜」
という農園のお母さんの話を聞きながら、
「もう1つ。おっとこっちも美味しそう。。^^」

たっぷりイチゴを堪能してきました(^_-)-☆


渋滞を覚悟しながらも早朝に出発したおかげで、イチゴをバッチリ頂いてから、長瀞へと出発することが出来ました。


長瀞は、さすがにGWの賑わいあって、混雑していました。

荒川ライン下りチケット

早々に「荒川ライン下り」の予約をすませ、鮎の姿塩焼きを食べたい!という家族の声に賛成し、お店が立ち並んでいる周辺をぶらぶらと歩き周りました。

美味しかったな。。鮎の塩焼き!

人の味覚を喜ばせるのも大事ですが、臭覚を喜ばせてくれるものがあるのも観光地ならではの楽しみ方ですよね!

煎餅焼き

歩いていると、ぷ〜んと香ばしい匂いにつられて急ぎ足でそばへ寄ると、大きなせんべいを焼いているお店がありました。

醤油の焼けた香ばしい匂いは、道を行き交う人たちの足を止める効果があるようです。

子ども

炉辺で冷たいビールと鮎の塩焼きを食べた後は、再び試食歩き!

道端に並べている野菜の値段を見て、またまたビックリ。大きくて真っ赤なトマトが大ざるにごろごろ入っていて300円!うどが何本も束ねてあって200円。。!

食べ盛りの子どもたちを持つ母親として、ありがたい大地の宝に思わず喰らいついてしまうのは悲しい性なのかも。。


ぶらぶらして待つこと2時間。
ようやく荒川ライン下りの時間がやってきました。

チャレンジコースを希望したのですが、今日はすでにそのコースチケットは終了とのことで、ロマンチックコースになり、子どもたちはがっかりしたようですが、スタートしてみるとそんなに穏やかでもないコースにびっくり!

水しぶきをしっかり浴びながら、ライン下りを楽しむことができました。

荒川ライン下り

森林浴と渓流からのマイナスイオンをたっぷり浴びて、心身ともに洗われた気がします。

渓流泡

イチゴ狩りと渓流ライン下りを楽しんだ1日、なんとも不思議なことがありました。


長瀞駅の周辺を、アイスクリームとおせんべい片手にぶらぶら歩いていたときのこと、私の視線のちょうど向かいにどこかで見かけたような顔があることに気づきました。

じっと見つめながら記憶をたどろうとした瞬間、あっと思い出して歩み寄ると、相手も同じように驚いた表情で立ち上がり私の視線を捉えました。

彼は何年も会っていない私の従兄妹でした。

用事がなければまず会うことがない従兄妹と奥さんが、イヌを連れてそこに座っていたのです。

偶然の出会いでした。
時間も場所も予定も何もしらない従兄妹同士が、同じところでばったり出会う確率は限りなく透明に近いことですよね。

そこでさらに驚いたのは、従兄妹の父親…つまり私の叔父がついこの間病のため手術を受け、すっかり痩せてしまったという知らせでした。

叔父は私の母の弟で、実はその時母も長瀞に一緒に来ていたのです。
母もあまりの偶然にびっくりしながら、彼の話に耳を傾けていました。

ライン下り

この世界に偶然はない。すべてのことは必然である。
と私は思っているので、この必然的出会いが知らせてくれた驚くニュースに、なるほど神は様々な形や手段を使って、大切な情報を人間に伝えようとしてくれるものだと、確信したのです。


私が小学校の頃、「哲学」や「思想」などの深い知識の素晴らしさを熱い思いで語り、私に教えてくれたのがこの叔父でした。

まだ難しいことなど何もわからなかった幼少の私は、マルクスが何をしたのか、哲学がどんな勉強なのかまったく想像できなかったにも関わらず、この叔父さんを熱くさせているというその「深い知識」は、とてもすごいんだろうな!とだけは理解できたのを覚えています。

あれから40年以上がたち、今は私の存在すべてが「象徴哲学体系」や「宗教」「思想」「古代文明の謎」など様々な分野の探求に注がれています。
私が今ここにあるのは、叔父さんの影響が大きいといっても過言ではありません。

バタフライの偶然

家族でどこかへ行こう!→イチゴ狩り→場所は秩父→では長瀞でライン下りも!
そんな普通の計画が、私の恩師でもある叔父の病の知らせを受けることにつながっているなんて、本当にすごいことでした。


  • 2009.05.04 Monday
  • 14:45

脳で生まれた感情vs心で感じる感情



脳の機能や仕組みについて研究されている「脳科学総合研究センター」の調査結果によると、快・不快情動や喜び・悲しみ・怒りといった原始的な感情、喜怒哀楽、また愛・憎しみ・憂鬱やキレるなどのような人間独特な感情も含めて、それらの感情は、ものを見たり聞いたりするのと同じように、脳で生み出されているのだといいます。

心の機能と同様に、脳で生み出されている様々な感情のメカニズムが、しだいに明らかにされつつあるのだそうです。
たとえば、脳の左右両側にある側頭葉の「扁桃体」という場所は、快・不快の判断を行っていると考えられていて、そこが壊れると、恐れを感じなくなったり、自分にとって好ましいものと、そうでないものの判断がつかなくなったり、感情が理解できなくなったりするのだそうです。
奇妙な行動をとるとか、自分にとってどの程度喜びをもたらすものか嫌なものかを区別することが出来なくなるので、たとえば自分に対して非常に憤慨して怒っている人に対しても平気で話しかけてしまったりするようで、そのような現象が生じると、争いに巻き込まれてしまう可能性もあるのだそうです。そしてそれは「ウルバッハ・ビーテ病」という病気の原因でもあるともいわれています。


脳をつくっている主な細胞をニューロンといい、このニューロンとニューロンの間でやりとりされるのが、神経伝達物質です。
また、神経伝達物質のひとつであるドーパミンは有名ですが、このような物質が心の働きに大きく影響を与えているといいます。神経伝達物質(ドーパミン)の量や作用の強さが心の働きに影響し、幸せな気分をおこしたりするので、脳科学では、このドーパミンの放出と受容が、脳内自己刺激で快情動がおきる「からくり」だと考えているようです。

さらに、脳の中には「喜び」を生み出すという回路まであり、ドーパミンをたくさん放出させることで、喜びという快情動が一層引き起こされ、食事や睡眠・性行動などのような本能的行動を優先させることなく、快情動を興奮させ活動的にさせることも出来るようです。(覚せい剤や麻薬などの摂取もこのような仕組みによると考えられています)

このように、脳の様々な箇所の細胞には、快・不快情動において、好きなもの・嫌いなものに強く反応するものがあったり、どの程度の喜びを自分にもたらすのかを判断するものがあったり、また喜びや不快感をもたらすものが何かを知っているものがあったりして、そのメカニズムの発見は単純ではないが、多くの可能性を秘めているのだそうです。


人間のすべての感情や思考が脳で生み出され、決定され、人間の生活を支えているのだとすれば、人間の生きる意味・存在価値とは何なのだろうと考えさせられてしまうような調査結果ですね。

さて、仮に心で感じる感情すべてが、ドーパミンのような神経伝達物質の影響であるとすれば、たとえば愛する人と初めて結ばれるときの幸せドキドキ感も、初めて出産を迎えて苦痛の極限の向こう側でしわくちゃの我が子に対面したときの感動も、自分の夢が達成した瞬間の感激も、すべては情報を持ったニューロンから放出された化学物質の量と強さによるものであるということになるわけです。

そしてそのような感情体験が欲しければ、ドーパミンを多く放出できるような仕組みさえ発見すればいいのだということになりはしないでしょうか?
そうなったら、素晴らしい感情体験がいつでもどこでも経験できるようになるわけで、わざわざ身をもって体験することなど必要なくなってしまうのかもしれません。
・・・悲しいこと・・・ですね。


では、心で感じる感情を脳内物質だけで片付けられないという特殊なケースはないのでしょうか??

それは「予想不可能な現象」や「ありえないこと」、そして「奇跡」や「人智を超えた現象」などがそのケースにあたるのではないでしょうか。
たとえば、人が死を体験して甦った事実や、幽体離脱現象、透視やESP、病気の奇跡的な癒し効果、おどろくほど不思議な火事場のバカ力・・・など、脳が予測や証明できないようなことを体験することによって、生まれた感情や記憶、またその体験による意味と価値の認識力による影響や効果などは、「扁桃体」が壊れてしまったことが原因であるとか、ドーパミンにとって変わる別の特別化学物質が原因であろうとか、遺伝子の異常による影響であろうとかのような判断で片付けられるようなものではないのではないでしょうか。


私は脳科学についてはまったくの素人で、何の知識も研究体験もありませんので、専門的なことはわからないですが、心に感じるドキドキ感まで「脳」に関与されたくないというのが、心感情推進派の人間としての本音なのです。


「脳とクオリア」「脳と仮想」などの著者でもあり、「脳のアハ体験」としても一躍有名となっている脳と心の関係を探究し続けている茂木健一郎氏によると、私たち人間一人一人の身体組織の中には、過去の長い進化の歴史の中で刻み込まれてきた様々な痕跡が残っていて、生命記憶や江戸時代などの生活感情の痕跡や、進化の歴史における前世の体験の記憶などのような「思い出せない記憶」は、当然存在していると考えられる。と述べておられます。

脳と仮想
脳と仮想

そのような記憶や、自分がその場にいないのに自然に湧き上がって溢れてくる感情のメカニズムについては、心や魂などについて知ることと同様、宇宙的な見方、また哲学的な見地によってしか、探ることのできない世界のことのような気が致します。


もともと私たち人間は進化とともに海から陸に上がってきたのですから、太古の昔に遺伝子に記憶された水の中での記憶があっても不思議ではなく、だからこそ浦島太郎の竜宮城のようなおはなしが心の潤いとなるために語り継がれているのでしょうし、また魔術や魔法が力の玉手箱として霊界から降りてきて、ハリーポッターのようなファンタジーが人気を集める理由でもあるのだと思うのです。

脳は心の体であり、心は魂の器です。そして魂には自分の感覚が宿っており、霊には神が宿っておられ、霊と出会うことができる場所が魂の中だと私は考えています。


ですから、脳が心の様子を映し出すのも最もだとは考えますが、心がなければ脳はただの肉の塊です。
そして心に魂がなければ、自分の生きる力や魂の叫び、感動は味わえないでしょうし、魂を心に持っていなければ、霊と出会うことはできないわけです。

脳と心の関係は、科学して理解できるような関係ではないと思います。
「脳vs心」ではなく、「脳and心」として認識して生きてゆかないと、真実の女神は微笑んではくれないような気が致します。
  • 2007.12.12 Wednesday
  • 11:13

人生の折り返し地点



3年ほど前から男女が共に参画する社会づくりに向けて行政と一緒になって取り組んでいるのですが、そんな私が最近特に気になることが一つあります。

高齢化社会になりつつある現代、生きがいや夢を持ち続けて生きている高齢者の方が少ないということです。年をとってくれば身体のあちこちが弱くなるとともに、精神的にも弱気になったりつい下向きになってしまい、孤立してしまったりすることも多いと思います。特に夢や希望の光を見失っているか持つことをやめてしまっている人たちに、その傾向が強く見られるようです。
生きがいやどんなに小さくても叶えたいと願う夢を持っている高齢の方は、冗談を言うことにも前向きであったり、年齢の差を上手に使いながら異世代間の交流を図ったり、趣味や夢について学ぶ意欲を失わずにいることで瞳が活き活きとしていたりするのです。
それに反して自分が光を追い求めることをやめている人は、愚痴っぽく怒りっぽく、顔にも活き活きとした表情がないため一層老けて見える上に、若い人たちを寄せ付けないような頑固さが存在感を暗いものにしてしまいます。

人は必ず年をとります。
年齢を重ねることは弱くなることではありません。
社会の一線を退いたからといって、社会に貢献できないわけでもありません。
ただ無駄に年を重ねていることに私はあまり賛成できません。
本当は無駄になんて生きていなかったはずなのに、年輪を刻んできていることを自覚していないことに原因があるように思うのです。

30代でも夢も希望もない人生を送り続けていれば、高齢化した成人になるでしょうし、70代でも自分の夢に向かって邁進していれば、成人にも負けないほど知恵と知識にあふれた元気な賢人になるでしょう。
男女であるということは、この視点から見るとあまり意識しないようです。

人生50年は一昔前のこと、今は80年とも90年とも言える時代になりました。
そうなれば当然人生の折り返し地点も違ってきます。
30歳が折り返し地点だと感じている人もいれば、40歳、45歳と感じる人は様々です。
折り返すということは、ピークを過ぎることと同義に感じてしまうのですが、本当にそうでしょうか?

身体的肉体的機能についてはそのような認識はもちろん納得できますが、精神的な面についてはまったく違うはずです。
精神的人生感に折り返しはありません。
折り返すと実は思い込んでいるだけではないでしょうか。
逆に肉体的折り返し地点を過ぎた辺りからのほうが、精神的には一層強くなり、経験も豊富なことから知識と知恵の助けが加わり、人生を自分らしく楽しく生きるために必要な洞察力や判断力が増すと考えるほうが理にかなっているのではないでしょうか。

そうはいっても折り返し地点まで夢中で働いてきたのだから、これから何を求めればいいか・・・
と思う方もいるかもしれません。
夢も生きがいも無くさず、しっかりと希望の光を探し求め、自分の人生を一生涯楽しむためにはどうすればいいでしょうか。
そこには5つの原則が隠れています。

1.自分という本当の己を知る
2.諦めない
3.満足しない
4.光に対して投げやりにならない
5.人や物のせいにしない

この5つの原則に忠実である人は、いくつになっても人生を楽しんでいられるのだと思うのです。

自分にはそんなことは出来ないだろう・・・
今更何もできるわけはない
この年になってみっともない
やっても続けられるはずはない
もう3回もやったからこれくらいでいいだろう
どうせこれ以上やっても才能なんて無いんだから・・・
お金がなきゃできるはずない
夫の食事や介護に時間がかかるんだから、やんなっちゃう
子どもがいてそれどころじゃない
もう何年もがんばったのにこれじゃ何のためにやったんだか・・・

これらの言葉が心に浮かぶようであれば、それはすべて「言い訳」「口実」です。
本当の己を知り、人が生まれてきた意味を探し求め、人生に自分が生きた証を残すことこそが命の目的なのではないでしょうか。
男でも女でも関係ありません。

男女が異性という視点を超えて、ともに生涯を楽しく生きる・暮らせることができるようになれば、きっと社会も男女が共に平等という価値のもと働く環境が整ってくるに違いありません。

そのような視点を活かすことが出来る社会になることが、男女共同参画社会の実現に向けてとても大切なことなのだと思うこの頃なのです。
  • 2007.12.06 Thursday
  • 18:27

現在の自分を作っているのは

当たり前のことをもっともらしく言うつもりはない。
私は偽善も口実も嫌いだし、罪よりも愚かさのほうが嫌いです。

自分をそれ以上にもそれ以下にも見せることは無いし、
人をそれ以上に持ち上げたりそれ以下に見下げたりすることもない。

当たり前に感じるからといって、当たり前だと思わないし、
100人が駄目だといっても私が良ければそれを行なう。

私はあくまでも私であって、人の価値観や人の理想に当てはまることは
絶対にない。

そんな私の考えを、私は正しいとも思わないし、人に同じように考えて
もらいたいとも思わない。

正しいことや間違っていることなんて、所詮は水の如き流れるものだから。


人と自分の関わり方は何万何百万とあるから、
どれが一番理想的だといえるようなものではない。

そのような生き方をしている私は、今ではあまり人と関わるのが好きではない。
自分を繕うのも相手に繕わせるのも嫌いだし、
同じ時間を共有することで何かを期待することが
今は無いからかもしれない。


今日、ある真実を発見した。

それは、今の自分を作り上げたのは
「私ではない他の人と神だ」ということを。

私がこれまで努力したり学んだり経験したり、体験したり
積み上げたりしてきた数々のことは、
私が一人では絶対に出来なかったことなのだ。

私という人間を象っている全ては、私が創ったものではないのだ。


友達と喧嘩をしたことで、悩んだり悲しんだりしたとする。
それはその友達がいて、喧嘩をする理由を持っていて、性格を持っていた。だから喧嘩できたわけ。

大きなビジネスに成功したとする。それは、自分が勝ち取った仕事かもしれない。でも、相手がそれを認めなければ成功は在り得ないのだ。

結婚に失敗したとする。原因の9割が相手にあったとする。
そのせいで自分は苦労し、苦悩し、絶望的になったとする。
それでもそれは相手がいなかったらそのようにならなかったわけだ。


今こうして生きているのは、全てが自分のおかげでなく、
他人のおかげなのだということ。

全ては水が流れるように自然に発生している。
喜びも悲しみも幸せも悲しみも…。


そう考えると、自分が生きているのは何という奇跡なのだろう
と感じることができる。

楽しいと思えたら嬉しい。
悲しいと思えたら感謝。
辛いと思えるのも感謝で、すべては巡り巡って流れてくる奇跡のかけら。



私を創ってくれたみんな、ありがとう。
  • 2007.02.15 Thursday
  • 21:29

宝瓶宮時代〜アクエリアン・エイジ〜



私は、水瓶座生まれです。
この1年ほど、宝瓶宮時代について書籍を紐解いたり、占星術的な解釈だけでなく、古代における神話素的な背景にまで遡って、研究をしてきました。

一冊の本が書きあがるくらいの資料と新概念の発見が蓄積され、
今年は少しずつ形にしていこうと思っています。

ここでは、宝瓶宮の由来から「水」に関連する神秘的解釈を含めて
少し紹介してみます。





私の中から浮かび上がる概念やイメージは、最初はとても激しく
次第に緩やかな渓流となって川を下り、ついには大海に流れ着くかのように
私を駆り立てつ流れるままに従うような感覚でした。

それらの概念は、私にとってはまるで自分の中から水が流れ出るように
次から次へと溢れ出てくるようでした。

私たちの生きる新しい時代…
宝瓶宮

どのような秘密が隠されているのでしょうか。
あなたも、自分の内側から流れ出る水の力を借りて、
神秘を紐解いてみてください。



宝瓶宮時代〜アクエリアン・エイジ〜


次回は、「壺(クラテール)・水瓶」
についてのせたいと思います♪

  • 2007.01.17 Wednesday
  • 17:24

ユングとの出会い



スイスの精神分析・心理学者であるC・G・ユング博士を知らない人は少ないと思いますが、彼もまた神の民であり、神の国を述べ伝えるために古代から脈々と受け継がれてきた真理の水の流れに身を委ねた、選民であったことを知る人は少ないと思います。

ユングの書物を一つ一つ紐解いて読んでみると、彼の独特の表現技法に出会います。それは、まったくもって単刀直入的な表現からかけ離れた形であり、目的地であるおばあさんの家まで届けものをするのに、回り道をしながら花を摘んで歩く赤ずきんちゃんのようであり、到底理解しがたいと思うほどに象徴や言葉の魔術を取り込んでいるかのようです。

私が最初にユングの無意識の構造についての著書を読んだときは、高校1年生の時でした。小学生・中学生と成長する過程で、私は推理小説をはじめ多くの謎解き小説を好んで読んでいました。
高校生になったときには、謎解きの対称が「自己」や「心」、「神秘」「不思議」に向けられることとなりました。初めて出会ったユング心理学やアドラー、フロイトの心理学についての本は、当時の私にはあまりにも難解で何も教えてくれはしませんでした。

ただ知りえたことは、心理学とは難しい学問だ!ということだけでした。
そしてもう一つとても不思議な事がありました。
ユングの写真を見ていると、とても安心して落ち着くことが出来たということでした。それは、まるで自分の本当の祖父だと感じるような、言葉や概念、学理や論理の上では何一つ理解出来ないのに、ユングの考えていることが解るような、温かい気持ちでは繋がっていると感じるようなものでした。

それから四半世紀近い年月が過ぎ、私は心理学という学問からは程遠い世界で人生を送っていました。
もちろん多くの本を読み、心理学やユングの言葉に触れることもありましたが、生きることに精一杯の私にとってあまりにも遠いところのものだったのです。



私とユングはそのような出会いから始まりましたが、今ではユングの著書やユングの思考が私にとって大きな慰めであり、励ましであり、力の源となりました。
ユングの遺してくれた大きな財産を出来るだけ多くの人に、普通の言葉を使って伝えることが出来たらと学び、研究していきたいと思うのが私の全ての土台となっているのです。

無意識という心理構造だけでなく、錬金術と心理学との関係や、古代密議やグノーシス思想、古文書との関係、またキリスト教や密教、仏教やイスラム教など宗教を超えた一神教の世界で生き続けている哲学的心理学的な展開での真理構造、そして復活を願って止まない「神話」の生ける水…

全ては時空を超えた視点に端を発していて、その領域ではユングの集合的無意識が語るところの認識の源泉であり、アイオーンであるということを私は信じて疑いません。

医学者としてでなく、臨床に全てを依存する訳でもなく、学問として指導するに留まらず、ユングの語るところのものはまさに「真理学」であると感じているのです。

「学智というものは、神からの贈り物であり、神の秘蹟であり、神の宰領したもう事柄である」として、錬金術の書を紐解いた賢者たちは、これらを様々な象徴像や表現でくるんで秘密にしてきたのだと言われています。

そして錬金術師の奥義は、無意識事象の象徴の核心の中にこそあるとユングは考えていました。

ユングが心理学や様々な分析による考察を通して、何を認識し、何を伝えようとしていたのか、心理学という分野でユングの体験を追体験し、共有するとはどのようなことかなど、多くの対象を含めてこれからも解りやすく私なりの視点で伝えていかれたらと思っています。

(^^)v
  • 2007.01.08 Monday
  • 10:34

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