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  • 2017.06.23 Friday
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無意識の真実

ボロンティクが導く悟りへの道〜マヤとインド〜


心地よい秋の静けさが、人の心をすっぽりと包み込んでくれる菩提の季節となりました。

仏教に関してはまったくの素人ですが、菩提という言葉が私は好きです。
意味は「一切の迷いのない悟りに至る境地の意」とあります。

また「煩悩・菩提」というのは、「悟りの障害となる人間の迷いの煩悩も、そのまま悟りにつながるきっかけとなることで、悟りも悟りの実現を妨げる煩悩も、永久不変の真如しんにょの現れである。 また人間の本性であるから、本来別のものでなく、二つは一体であるということ。また、迷いがあって初めて悟りもあるという意。」
だそうです。

goo辞書・煩悩菩提より


迷いのない悟りの境地で生きることはあまり想像できませんが、迷いと混乱の霊がこの世界からいなくなることはないのかなぁと思います。
なくなってしまったらそこは人間界ではなくなり、天界の層に属することになるからかな。。(*^^)v





宗教的な視点からみるとマヤの叡智には「キリスト教」の要素が多く散りばめられているように見えます。 でもそれはおそらくスペインの戦略以降マヤ本来の伝統思想に魔法のベールをかけて隠しただけに過ぎないのかもしれません。

もちろん、キリスト教の背景に隠されている象徴的意味においては、マヤだけでなく全世界の秘儀の中に見つかるとは思いますが。


  ★★★


マヤのケツァルコアトルという神には、東洋的・仏教的視点が描かれているものがあります。


「メキシコ国民文芸の分析」第二巻には、ケツァルコアトルを示すと考えられる像の頭部が描かれていて、その彫刻された姿は明らかに東洋的な性質を持っていると学者はいいます。
インドのチャクラに非常に近い象徴のようです。


ケツァルコアトルの頭部の王冠には、数千の花弁の形をした霊的啓示の光線と、解放された脊柱の火の蛇が見えているのだと。


古代インド哲学の理論や密教では、クンダリニーを覚醒させ、身体中の気道やチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガは特別な霊的修行のようですよね。


紀元前2500年-1800年のインダス文明に、その遠い起源をもつ可能性のあるインド・ヨーガの思想と、5千年という長期暦と時のサイクルを持つマヤの宇宙思想とは、遠いようでものすごーく近いのかもしれません。



  ★★★

少しだけ想像してみてください。


空に一番近いといわれる真夜中のジャングルで、あなたは仰向けに寝転んでいます。

ジャングルには一筋の光もありませんので、地上は恐ろしいほど真っ暗です。
視線の先にある空には無数の星が散りばめられ、天の川が見える。

人間の意識は自然の中では正直です。

金星やたくさんの輝く星、天の川はまるで天国に続いている道のようです。



ワカフチャンが空に寝転んで、地上にいる自分に物語を聞かせてくれる。。。

壮大な宇宙は、いつしか鏡に映る自分の小宇宙のように夢と重なって、霊的啓示への奥義を歩く道を知らせてくれる・・・

素敵でしょ♪



時を見守るマヤの神々は、すべてを知らせてくれるエネルギーを天からも地下からも送り続けています。


太陽が空にある昼間の時間、人間の意識は13層からなる天界の神々「オシュラフンティク」によって守護されています。


また地平線に太陽が沈んだ時から朝日が昇る前までの夜の時間、人は無意識界を司る9層の地下世界の神々「ボロンティク」により支配されます。


夜の時間はまるでボロンティクの神々が力を合わせて星を動かしているかのよう。


秋は想像を楽しみながら菩提の世界に思いを馳せ、自分の内面を成長させるのに良い時期ですね!

  • 2010.10.09 Saturday
  • 21:21

無意識の真実

怖いと嬉しい感情のひみつ

東京多摩地区は大雨と雷が凄まじい勢いを増している。
稲妻を見ながら娘は嬉しそうに笑いながら言う…

「怖いね〜!」


2009年2月22日、マヤ暦ではこの日が新年だった。
新しい年の荷物の担ぎ手は「イク=風」だ。

何かが始まる予感がしていた。

「イク」風


「マヤの人々は一般的には、「風」を好まない。風には悪い霊が住んでいるというのだ。あちらこちらで猛烈に吹き荒れて人体に入りこむ隙を狙い、精神的肉体的変調を引き起こす。マヤのヒーラー、ドン・エリジオ・パンティは『純粋に肉体的原因ではなく、魔術的な力によって病気になる人が多い』という。病は風によってもたらされたものだというのだ。」


「ジャガーの智恵」中央アート出版 ケネス・ジョンソン著
にはこう書かれていた。


私は、悪魔的な力と神的な力を「風」に感じている。

決して油断してはならないほど恐ろしくもあり、と同時に通年以上に研ぎ澄まされた天のスピリットが、良き訪れを予感させる。

言うならば「神性のアンビバレンス」とでもいおうか。

神性のアンビバレンツ


ヘブル語で「悪魔」という言葉は「敵」「反目」「敵意」などを意味しているが、インターナショナルディクショナリーによれば、悪魔とは「神の敵…だが神に従属し、神の許容によってのみ活動することができる」とある。

つまり、「悪魔」とはとてもいかがわしくてアンビバレントな存在ということになる。


悪魔は神を憎んでいるのに、もう一方では神の権威に服従していて、神の暗黙の許しがなければ活動することができないのだ。

神は一方では天使を、そしてもう一方で悪魔を創造した…
そして神は人間を試している。

創世記では、神はエデンの園の中央に善悪を知る木の実を創作して置いているのに、その木の実を食べてはならないと禁じている。

マヤでも同じだ。
「風」には悪い霊が住んでいるとして、マヤの人々は恐れていた。魔術的な力によって病気になるとも。。

しかし一方で「風」は「聖なる息吹」であり、生命のシンボルでもある。宇宙エネルギーがスピリットとして天から注がれ、無限とも言えるパワーが与えられ、自由に使えると信じられていたのだ。



「風」が守護の今年はつまり「アンビバレンス」な年なのだ。

「悪魔」は人間にとって悪ではないのだ。
ゲーテ流にいうと「悪魔とは邪悪にのみ働く力でありながら、善を生み出す力」なのだ。



悪魔的な悪い霊が、風の年にどのような悪戯をするのか…!


1. 集団的なヒステリーを引き起こすだろう
2. 最も有効な武器として「引き伸ばし」をさせるであろう
3. 無視を憎み、注意を引くためにわざと奇抜な行為にでるだろう
4. 混乱を巻き起こすだろう
5. スケープゴート役を演じるものが多くでるであろう
6. 被害者をつくりだすであろう
7. 自己の座を明け渡させてしまうであろう

風の悪戯


実際に生じている風の仕業は、

・新年の荷物を担ぎ始めた「イク」は、早々に新型インフルエンザという感染病原体を飛ばしている。
・ネコや鳥の感覚が研ぎ澄まされ、驚くほど敏感に反応するようになっている。
・精神的に安定していて、さして大きな問題や困難を抱えているわけでもない「普通の人」の霊的な感覚に変化が生じている。
・混乱の形態が、渦を巻くように素粒子が混ざり合って事の本質を見破られないようにさせている。
・甘い蜜の入ったマナを目の前で与えられ、人間が動物のままであるように気の集中を奪おうとしている。
・政治的、経済的、学術的、芸術的に優れた人がこの世界を神の世界に近づけないように、足を引っ張っている。


マヤの国は太陽に服従し、太陽のために生きる太陽の国である。

空が限りなく拡がり、谷も山もない地域、川も流れない…これほど太陽に近い大地に生きる民族にとって、天の法則を識ることは、何よりも必要なことだった。

そしてマヤ人は3つの重要な天体…太陽、月、そして金星を観察し、最も正確な暦を案出したのだ。
そこから「太陽の伝説」が生まれたのだ。

メキシコ人は「ケツァルコアトル」という名前を、大昔に生きた神を指すと同時に、宗教的指導者を指す称号としても使っていた。

マヤでは神の特別な予言が伝えられていた。
「1・葦」と言われる年、ケツァルコアトルが帰還する。

光をもたらすもの…「翼ある蛇」であるケツァルコアトルは、「風」の神の化身である。


風は「呼吸」なのだ。

人間は呼吸を止めると死んでしまう。
「風」は呼吸であり、生命の息吹そのものであり、特別な「翼ある蛇」ケツァルコアトル神の力を帯びている象徴なのだ。

「風」なくして人間は生きられないのだ。


悪魔は「風」を利用して、人間に神の両価性を知らせようとする。


「わたしは悪魔ではない。おまえの神聖な善の反対である。ただそれだけである。」と。


風がどのようにこの世界に悪戯をしたとしても、それは「悪」ではないのだ。

それは油断してはならない魔術的な力であり、悪い霊が宿るには好都合であると同時に、良き訪れでもある。

新型インフルエンザの猛威という知らせと病原体の存在に人間はおどらされ、集団的なヒステリーを引き起こす前に、私たちは風が悪戯をしている真の狙いを捜し求めなくてはならないのだ。


善と悪のミステリーについて、キリストも言っているではないか!
「わたしは平安をもたらすために来たのではない。剣を投げ込むためにきたのだ。」と。

古代マヤの人たちが伝えようとした神聖暦の知恵には、現代の私たちが忘れている「最も大切な真理」が隠されているのだ。

雷や稲妻は強い力を象徴し、怖い気持ちと同時に、わくわくさせることもできるのだから!

それを忘れてしまう愚かな人間になってはならない。


Ave Maria
  • 2009.05.24 Sunday
  • 20:46

無意識の真実

無意識と意識の関係


ふつう、人は自分の意識や考えが「自分」だと思っています。

私は、こういう性格であるとか、社交的で話好きであるとか、曲がったことが嫌いで頑固であるというように、自分の性格や性質、話し方や考え方、癖や習慣など全てを「自分自身である」として受けとめ、生活をしています。


「あなたってそういう人だったのね〜意外だわ!」というまったく予期せぬ他人の意見によって、新たな自分を発見することはありますが、それでも自分の意識が前面に出ていることに変わりはないのです。


ところが、無意識が自然に意識に働きかけることが当の本人に許されている人にとっては、意識するしないに関係なく、ふとした思いつきや、駆り立てられる透明性の指令によって、自分が行動に駆り立てられるということがあります。

たとえば自分の意志は右へ行こうとしているのに、何故か左へ行かなくてはならないような気持ちになり、どうしても左へ足が進むよう誘導され、仕方なく行ってみると、偶然にもそこでばったり運命の親友に会う・・のような、また幸運にも右へ行っていたら、自動車と間違いなく接触していた・・のように、それは偶然という形でしか理解できない、不可思議な意思を認めるような状況に遭遇します。

無意識の象徴

それは無意識のなせる業であるとも言えますし、意味ある偶然の一致によって自分ではない何者かの意志を認識し、したがっているとも言えるのです。


無意識と意識は、ふつうはほとんど一致しません。
なぜ一致しないのかというと、
無意識が意識に対して補償的、または補完的に働くからです。
あるいは逆に、意識が無意識に対して補完的に働くからなのです。


無意識のなかにはまだ十分に一定の値に達していない空想の混合物があり、時々の経過に従って、条件さえ整えば意識の光のなかに浮かび上がってくるものなのです。

ユングはこういっています。

「無意識のなかにある元型は、それ自体善でも悪でもない。それは道徳的には中立のヌーメン(神性)であって、意識と衝突したときにはじめて善か悪か、あるいはその相反する二重性かに赴くのである。善へ赴くか悪へ赴くかの決定は、知っていようと知らずにであろうと人間の意識の態度によって決まってくる」
・・・「創造する無意識」文学と心理学より


人間の意識は、とても頑固で固定的な概念を信望する傾向があります。
つねに個人的な心のあり方や知的な先入観、道徳的価値観や仁義的慣習が顔をもたげ、意識が無意識と結合していくのを邪魔するのです。


自分に当てはまりそうもないことや知りたくないことはすべて、「ありえない」と人間の意識は判断してしまうため、「理解」と「認識」という異なる次元のスタート地点へ踏み入れることが難しいのです。

心理的なこと、精神的な事象、不思議な現象や神秘的なことを目前にすると、人間の意識はつねに「それは本当か?!」「正しいか?!」などと余計な口を出す根性があり、それこそが無意識の意識化にとっては最大の敵なのです。


自己解放、無意識と意識の結合、超越的な機能の回復、元型との出会いや神話素との語らい、多くの可能性を秘めたままサインやイメージを意識に送り続けている無意識の力・・

私たち人間には常に信じられないようなことが起こりうるということを、自分の意識に認めさせることからしか、無意識の世界と手を取り合うことはできないのではないでしょうか。

意識が表で無意識が裏という考え方から、一歩下がり、無意識に意識が自らの指揮を委ねてみることが必要です。
そうすることで、意識はようやく裏側の世界を知ることができるからです。

4つの目

人にとって、この肉体は滅び去っていくものです。
肉体の次元にどんなに強く意識がしがみついていても、所詮は消滅してしまうのなのです。

無意識の領域には、集合的な力と神話素とありえない世界が共存しています。
そこは時間も空間もない世界であって、肉体の力や意識が及ばない領域です。

無意識の住人

無意識や神意識と同じ時空間に意識を移動させることが出来る人を私は知っています。その人は肉体を持っていますが、人間としての意識ではない次元の意識を持っているのです。
その人はこういいます。

人間の運命は身体に網羅している毛細血管と同じである。と。
何千何万という血管は、つながっているけれどその場では常に分かれ路の選択であり、右へ行くか左へ行くかは違うようで違わない。血管が詰まっているところへたどり着いてしまったとき、人は死ぬ。。

無意識の世界を生きる霊友を見つけたようで、その話を聞いた私の魂は震えて喜びました。

無意識をどんなに頑張って意識しよう、理解しようとしても、
それは徒労に終わります。
意識が頑張って出来ることではないですから!

でも、意識が無意識に主導権を委ねる覚悟が出来たとき、人は無意識の世界に一歩足を踏み入れることができるのではないでしょうか。。
(*^^)v


Happy Easter Holiday!

イースターエッグ
  • 2009.04.12 Sunday
  • 09:14

無意識の真実

未知への憧れ



未知の世界、未知の生命など、未知というものは、人間である私たちの憧れです。


私たちが知ることの出来ないものは、この世界にはたくさんあります。

知らない・見たことがない、からと言って「無い」「実在しない」とは言えません。なぜなら「知らない」のですから。

でも実はそんな論議をする以前に、当事者たちは「未知の世界」の魅力に惹きつけられていることを忘れてはなりません。

「知りたい」「見てみたい」「わかりたい」「確認したい」という好奇心は、不思議や未知に架けられている梯子です。

でもこの梯子を誰もが上るわけではありません。

梯子があっても上らない人
梯子に興味のない人
梯子を上るのが怖い人
梯子を叩き壊す人

様々な人がいるのですから。




ではなぜ「未知の魅力」には、そんなに人を惹きつける力があるのでしょうか?
恐怖かもしれない梯子を上らせる意思はどこから来るのでしょう。

それは「人は真実を知るために生きる」とさえ言われる所以ではないでしょうか。



イエス・キリストは40日間、荒野で悪魔の試みに会ったといいます。
空腹を覚えたイエスに悪魔は「あなたが神の子どもなら、この石にパンになれ!と命じたらどうだ?!」
と誘惑します。 するとイエスは「人はパンだけで生きるのではない」と答えました。

別のところで、イエスはこう言っています。
「わたしには、あなた方の知らない食べ物がある」
と。

聖書の最後にある黙示録には、次のようにあります。
「いのちの木の実」を食べる権利を与えられる者は幸いです。


私はこの「いのちの木の実」を食べたいという欲求は、人間の集合無意識に備わっている本能だと思うのです。




楽園の中央にあった「いのちの木」と「善悪の知識の木」。

アダムとイブが楽園に暮らしていたとき、悪魔の誘惑に負けたイブが、園の中央にある「善悪の知識の木の実」を食べてしまったときから、私たち人間の無意識の奥底には、この欲求が組み込まれているのではないでしょうか。

神のようになって善悪を知るようになりたい。賢くするというその木にたどり着きたい。

それが真実を知りたいという好奇心となって、未知の梯子を上るように駆り立てられてしまう。

でもイエスが食べていたのは、悪魔の誘惑に負けたイブが食べたものとは違い、それを食べたものは永遠に生きると言われる「いのちの木」の実ではないでしょうか。

その後エデンの園の東には、ケルビムと炎の剣が置かれ、いのちの木への道が守られています。

私たちが未知の世界に架けられた梯子を上るとき、炎の剣の恐怖に立ち向かい、ケルビムにも対面し、さらに集合無意識に備わった本能である悪魔の誘惑にも負けないで上っていかなければなりません。

勝利を得る者になるために。


時に真実は残酷です。
真実を知ることが決して幸せだとは限りません。

でも人が「真実を知りたい」と願う本能の要求に、逆らい続けることは大変なのではないでしょうか。

未知への憧れがなければ、人は未来に希望を持てないのかもしれません。
明日がどうなるかわかっていたら、生きる意味がなくなってしまう。

宇宙の果てと終わりが見えていたら、恐ろしさゆえ毎日が恐怖になってしまうかもしれない。
そんな未来なんて、死ぬために生きるようなものだから。


そのような相反する矛盾を抱えたまま、人は無意識の要求に逆らうことは出来ず、楽園への扉をたたくためやいのちの木の実を食べる権利を与えられるため、未知の世界を求めて、歩むのではないでしょうか。



見る植物
  • 2009.02.12 Thursday
  • 12:22

無意識の真実

共時性がなせる業

しばらくHPもブログも更新出来ませんでした。
実は大変なことが起きてしまったのです!(~_~;)

私の無意識がパンク寸前状態でいたため、ある時から突然次から次へと頭脳がやられてしまったのです!
 まず子どものパソコンがウイルスにやられ、何とか復旧したと思ったら、仕事に使っていた私のパソコンがまったく機能しなくなってしまいました。WINDOWSがまったく立ち上がらず、黒画面に英語で不具合を訴えてくるばかり…。(~o~)
何とかデータを残して!との願いも空しく、ついにパソコンはメーカーへ修理に入ってしまいました。きっときれいな箱になって戻ってくるに違いないのです!!

さらに時を同じくして自宅のマンションの電気系統がやられ、雷も落ちていないのに全戸停電状態が何度かあって、いったいどうしたもんやら!と、数日間ショックから立ち直れずにいました。

自分の片腕だったパソコンが突然いなくなるなんて、あまりにもショックなあまり数日間呆然としていました。
気が動転してしまって、まるで自分の記憶が一緒に飛んでなくなってしまったかのようでした。 立ち上がってキッチンへ行ったはずが何をしに行ったのかさえわからなくなってしまったりして!!!

人間はどこまで愚かなのだろうと、自分の愚かさに腹立たしさを感じています。

ところで、私の無意識はある意味でそれを察知していたとも言えます。
何かをしなさい!というコマンドに対し、私の意識は反抗・抵抗していました。それが何かを探るのが私の意識の仕事なのに、無意識のサジェスチョンにあくまでも鈍感でいようと居直っていたのが、諸悪の根源だったのだと思っています。
自分の愚かさを今更ながら笑ってしまうのです。

修理に出したパソコンが戻ってくるまで、子どものパソコンを借りて何とかするしかないのです!

悲しい11月の始まりでした(^^ゞ
  • 2008.11.09 Sunday
  • 00:50

無意識の真実

車輪

マヤの神秘と無意識の真実との対応を書こうと思ってから、とうとうひと月が過ぎてしまいました。

現在、私の車輪は南方からやってくる強い南風に、勢いよくあおられています。
車輪の回転速度が増していけばいくほど、中心はまるで動いていないかのようにそこに留まりつづけます。

中心は静止しているときと同じようにはっきりと目に映ります。
しかし決定的に違うのは、中心は「動いて回転している」こと、そして「さわれない」ことです。
点検をしようにも、回転している車輪を修理することはできません。

人間は肉体とともに生きている以上、最低限食事をとるとか排泄するとかと同じように、しなければならない現実に直面して日常をおくります。
肉体に囚われて生活しなくてはなりません。

私の無意識は車輪の中心にとどまっています。

私はその中心がなければ、車輪が回転できないことを知っています。と同時に、それは中心が回転している以上、さわることも、静かに点検することもできないことを意味しています。

そのような状況は、本来の私の使命にとって実は妨げとなります。
車輪の中心を注意深く観察し、点検し、中心である無意識がどのように変化しているのかを調べ、深く掘り下げて人類の遺産と照らし合わせる…ことや、世に伝えることが出来ないからです。
何とも皮肉なことです。

というわけで、マヤ文明の伝承と対応させた真理の発見を、言葉として綴ることが出来ないままでいます。

それらは私の脳の記憶に留まっていて、紙片となって散らばっているに過ぎず、消化不良をおこすか、ぼろぼろと零れ落ちてゆく記憶の断片を、拾い集めながらしっかりと握っていることしか出来ない状態です。
情けないやら悲しいやら・・・

少し時間が必要です。
そして休息も必要です。
暑い夏、もう少し涼しくさえなってくれれば、精神も落ち着くのにと思うこの頃です。(^_^;)
  • 2008.07.31 Thursday
  • 08:00

無意識の真実

無意識に国境はない!

私のサイトには、海外の様々な国から何回もアクセスして見てくださる方がいらっしゃいます。

「無意識」というキーワードを検索すれば、検索の上位結果にのるからかもしれません。

日本をトップとして
「アメリカ」「韓国」「ドイツ」「フランス」「英国」「カナダ」「ブラジル」「オーストラリア」「スイス」「ニュージーランド」「タイ」「メキシコ」と続いています。

中でもブラジルとスイス、メキシコの国から訪問してくださる方は平均4ページ以上もご覧下さっていて、大変嬉しく思っています。



今年の5月で「無意識の世界」のHPを立ち上げて2年半になります。

それまでは自分のノートに思いや不思議を綴ったり、小説を書いては投稿したりしていましたが、サイトを制作して更新するようになってからは、自分の学んで感じたことを伝えてゆく面白さと読んでくださる人がいることの嬉しさが募り、こうして忙しくても継続してくることが出来たのだと今は思っています。


1万件以上のアクセスに対して半数以上の方がリターニングビジターとして再度サイトを訪問してくださっています。
そのことは何よりも私の大きな励みとなっています。

現代日本人は様々な国に散らばって生活しています。
仕事や留学であるかもしれませんし、旅行中か移住者かもしれません。
自分の目標に向かっているからかもしれませんし、その国に惚れこんでしまったからかもしれません。理由は色々でしょうけれど、中には日本や日本人の考え方が嫌だからという理由もあるかもしれません。

いずれにしても、海外に生活することで日本を客観的に見ることができるようになることは事実ですし、長所も短所も理解できることは間違いありません。

しかしどんなに国や土地が変わっても、人は心の故郷を忘れることはできません。


自分の命が育まれた土地の匂い、母や友と歩いた道端の景色、甘くて苦い味の体験などどれをとっても人の意識から消え去ってしまうことはないはずなのです。

それらのような「故郷体験」は、自我の意識が芽生えるとともに意識の奥底へと追いやられてしまうのです。記憶を繋ぐ信号の回路がしまい込まれ、忘却の彼方に同化してしまうものなら、それはそれで幸せなことかもしれませんが…。

無意識という人の心の深層世界には、どの国に住むどんな人種の人であってもかつては体験したことのある懐かしい思い出や、世代や時代を超えて万人に共通する祖先の故郷体験などが、たくさん詰め込まれています。そこはまるで巨大な貯蔵庫のようです。

私は無意識こそが、すべての世界に住む人類が訪れていつでも見ることの出来る共通の言語を持って展示している「図書館」か「蔵」のようなところだと考えています。


私の体験は私だけが理解するものでも、私だけが特別に持つものでもありません。けれど「人間としての私」の体験から来る認識や知識などは知る価値など全くないものであり、ある意味では不用なものなのです。

私が何を好きで、何を嫌いだとか、何が目標でどんな仕事をしていて、何が趣味だなんて万人の興味の対象になるはずがありません。

それよりも、私の知りうる限りの無意識体験や認識経験、蔵から取り出した素晴らしい蔵書の内容のほうが、何にも増して素晴らしく価値あることだと私は信じています。

ユングがボーリンゲンで過ごしていた時間を、私が同じように自分の部屋で共有することが出来ることを私は知っています。
彼の伝えたかった心の真理が、永遠の真理であると私は信じています。

外国からアクセスしてくださっている方へ、心をこめて感謝いたします。
日本の小さな街から発信している小さな私の無意識の世界が、皆様の無意識を元気づけることが出来るよう、波動の琴線に触れることが出来るよう、頑張って更新していきたいと思っています。
是非みなさまも心の故郷を忘れず、遠い世界で頑張ってください。


またもしも日本人でなく外国に故郷を持つ方がご覧くださっているのなら、興味を持ってくださって本当にありがとう。
無意識に国境はありません。
いつでも私たちは仲間になれるからです




みなさんほんとうにありがとう…。
  • 2008.05.30 Friday
  • 22:03

無意識の真実

人生と魂生

人生は色々な歩みかたがあります。
よく「前向き」で「楽天的」な生き方は健康的だと言われますし、「後ろ向き」で「ネガティブ」な生き方は歓迎されないとされています。

かといってどんなに前向きがいいとわかっていても、そう出来ない…どうしようもない・いかないことは人生には多々ありますよね。
心の向きをコントロールしたり、機嫌の舵を取ったりすることは、とても大変でむずかしいことだからなのでしょう。



人は無意識のうちに自分の明暗の性質を他人に投げかけていることにあまり気づきません。自分がどんなに明るく振舞っていても、実際に暗さで心がいっぱいのときは人に明るい印象を与えることはできません。

同じように楽天的で思いやり溢れる人を演じようと一生懸命努力していても、実際が反対の素を多分に持っている場合は逆に精一杯無理している様子を相手に知らせてしまうことになります。

そのように個人の歩き方や生き方そのものが人には見られてしまうことを、人は無意識に怖がってしまうため対面的に人は「隠そう」「誤魔化そう」としてしまうのです。



ここに「欲」「徳」のない穏やかな精神を持って暮らしている人がいるとします。
その人は損得勘定もしなければ上下関係によって人を観ることもしません。

彼はただただ穏やかに、自然や動物・人をあるがままに受け入れて自分の歩く道をゆっくりと歩き続けています。
その人にとっての人生はある意味自然と一体化しているわけですから、自然に逆らうような事象や心は正反対の動きとして認識されます。


それは夏が暑いのは自然であり、雨が降ったり台風がおきたりすることも自然の一部として受け止める姿勢ですから、暑い夏だからといって夏を否定しながら生きることをしないわけですね。


その人があるとき、一人の苦悩に満ちた人に出会ったとしましょう。


さて問題です。
彼はどのような心で苦悩に満ちた人を見つめるでしょうか?


前向きがいいよ!楽天的がいい!
自然に生きるのがいい! あるがままに生きるのがいい!
今は辛いけどいつか明るい日がやってくるよ!
大変そうだね。大丈夫?!
etc…

そのように人を見るのが普通の人かもしれません。
しかし彼は違います。

彼は自然や動植物と一体になれる生き方をしているのですから、突如現われた苦悩の人に対しても自然であり続けるはずです。

もしかしたら彼は自然に逆らわず、静かにその人に寄り添うかもしれません。
遠くからそっと見守っているのかもしれません。
苦悩を感じ取って、ただただ苦悩をともに共有して涙するかもしれません。

彼は自分の正義や生き方を相手に押し付けたり、無理やり説明したり、主張したりなど決してしないのです。

なぜなら人には苦悩が当たり前に訪れることを知っているからです。

つまり、人には苦しんだり、悩んだり、辛くて暗いトンネルがあるのが自然であると理解しているので、それを正したり諭したりすることは意味のないことだと考えているのです。




私は人の言動はあまり信用しませんが、人の目は信用しています。
人の目には無意識的な要素がたくさん映し出されているからです。
人生を「前向き」に歩こうと、「否定的」に歩こうと、私はいいと思っています。
それがその人にとって必要な歩く道だからだと信じるからです。


ただ、心の深層にある無意識は隠せないし誤魔化せません。
どんなに繕ってみても、嘯いてみても、欺こうと誤魔化してみても、無意識にある魂の姿と生き方は隠せるものではないからです。
それは「目」の瞳の中にちゃんと映し出されているのです。


隠者や老賢者と呼ばれる類の人たちには、そのような瞳の奥に隠された魂の生を見ることが出来ると言われています。


人生がどのように素晴らしいものであっても、どのように苦しく不幸なものであっても、それはその時だけのことです。
一生そうであり続けることなど滅多にないからです。


魂の生と道には嘘やごまかしがないことを思えば、自分の魂と手をつないでいる「無意識のこころの声」を大事にしながら、人生を送ることのほうが大切であることにもっと私たち人類は注意を払うことが大切なのではないでしょうか。少なくとも私はそう思っています。
  • 2008.05.23 Friday
  • 17:50

無意識の真実

現実と無意識

私たちが日常で知ることが出来ない「無意識」という深層の領域では、さまざまな変化や修練、想像や葛藤が日々行なわれています。

例えばある人が現実社会の中で、非常に厳しい状況におかれているとします。
人間関係に悩み、圧力や権力に服従し、時間に追われるまま体力の限界に近づきつつある・・・とする彼は、疲労困憊の毎日にかろうじて睡眠をとる程度の休息しかありません。
現実の意識下において彼は油断出来ない状況ですから、緊張によって精神が高ぶっていることは容易に推測できます。
そんなとき普通の人であれば、それを現実として受け入れて精進するという方法によって自己認識を促し、また受け入れます。

ところが無意識の力を理解している人であれば、異なる認識をとることが容易になります。
それは現実に影響している油断出来ない状況をつくりだしているのは、少なからず無意識の影響によるところが大きいはずだ。という認識です。

つまり、彼の現実を厳しくしているのは、何らかの意図によって目的が果たされるためであり、深層の無意識下では本来の彼自身の存在目的と意味が達せられるような仕組みが活発に機能していて、少なからずその影響が意識に伝達されているという推測がなされるということなのです。

何らかの理解を促すため善と悪が戦う必要がある。とか、人間の心理が個々によって成立する以前に万人に共通する真理に基づいている元型があることを悟らせる。とか、人間の身体機能に寄り頼むことの危険性や物質主義に依存する意志の愚かさへ警告の鐘を鳴らしている。などが考えられるからです。

無意識が彼に認識されることはなくとも、意識が無意識と連動していることに間違いがないことを理解するならば、彼の意識が何故そのような状況にあるのかを知る手がかりとなることが可能だからです。




「錯覚」をみなさんは知っていますね?
あれっ・・??と不思議に思うような瞬間であったり、誤解か誤認によって自分の意識がそう思っていたりすることです。

自分だけが他の人と違った視点によって物事や事象を捉えることを良しとする思考形態を持ち得ない人にとって、皆と異なる理解をしたときにはそれを「錯覚」や「妄想」として意識は処理しようとするのです。しかし、この「錯覚」や「妄想」がしっかり認識されるような意識の受容を認めている人にとって、それほど素晴らしい財宝はないということが理解されています。

例えば芸術家や音楽家、作家や創作家がその領域の認識者だといえます。
偉人・天才は神か何者かが上から降りてきて、彼らの精神を占領したとき作品が生まれたという表現をよくしています。

ところが普通の人間にはその情報をキャッチする受け皿を持っていません。いえ正しくは、持っていないのではなく、持っているのに持っていることを知りません。

空から一万円札がパラパラと降ってきているのに、箱を天にかざして拾おうとする人はごくわずかなのです。みんなその一万円札を横目に見てか見ないでか、文句を言いながら「この雨は何だか臭いなあ…」と呟いては通り過ぎていってしまうのです。もったいないことです!

無意識にはそのような財宝がたくさん眠っています。
トレジャーハンターであれば、喜んで大海に船を漕ぎ出すこと間違いなしです。

私はその無意識の素晴らしさに魅了された一人として、財宝のありかを声を出して知らせています。

しかし困難は続きます。

一つ目の困難は、目に見えない一万円札をどのように知らせたらよいのか常に模索していることです。私には見える一万円札をどんなに箱いっぱいに受け取って幸せになっても、それをともに喜び合う人がいなければそれは幸せではありません。

そしてもう一つの困難は、空から降ってくる一万円札が時折化けることです。その人が純粋な精神を持っていれば一万円札に見えるのですが、悪魔のような心を持っている人にとっては一万円札は蛇や呪いの人形のように邪悪なものに見えてしまうからです。それは受け取る人の心が一万円札に反射しているだけなのです。天から降ってくる一万円札は透き通った純金で出来ているようなものなので、箱を持っている人の意識が反映されてしまうのです。



困難は永遠に続きます。終焉を見ることはありません。

無意識は常に私たちの身近にあるこころの真理を司っています。

ほら!空を見上げてみてください。
今日も空から透き通った純金と純銀の一万円札がパラパラと降っていますよ♪

  • 2008.05.18 Sunday
  • 09:28

無意識の真実

無意識の願望

人の魂は「情動」を食物として摂取しながら成長していくのだと私は思います。


心が震撼するような感動を味わうと、人の目には自然と涙が溢れてきます。
それが嬉しさいっぱいの喜びであったり、胸を打つような愛のふれあいであったりすればもちろんのこと、反対に苦しみや絶望から希望の光に向かって歩んだ人間の強さや偉業の影に積み重ねてきた苦労と努力の歴史のようなものであっても、心から突き上げてくる感情の動きは人の心を捉えます。

この「情」の動きは自分が選択するしないに関わらず、心の底からわき上がってきます。
普通の人なら誰でも最小限は持っている「人情」のようなものを揺さぶるからなのかもしれません。


そして情動の体験を多く積んできた人は、感性が研ぎ澄まされ、心が震撼するような事柄に敏感になります。
そしてそれらは肥やしとなって人間の魂を成長させてくれるのです。



ところで、無意識には普通の常識では知りえないような、驚くような力が隠されていることに私は魅了され続けています。



心を揺さぶるような発見や感動を、言葉にして伝えたいという思いから「無意識の世界」ウェブサイトやこのブログを立ち上げたのです。

魂の肥やしである「情動」は、人間側の選択によらないと申し上げましたが、実はもう一つ別の側面からも、魂の栄養を補給できる方法を発見しました。
そしてそちらもまた、ある意味では人間側の積極的な努力による以上に自分の意志に関わらずというような前提があるようです。

それは「疑問」「興味」「好奇心」のようなものです。


たとえば私の素朴な疑問・・・


「私という人間の考えていること、体験したこと、理想や希望や夢などの全ては、どのような理由によりこのような経緯をたどって現在のような思考形態を持った私に落ち着いているのだろう」


47年も生きていれば、自分の意志でそうなったことばかりではなく、自分の意思や考え、理想などとは全く反して現実が進行してきたことなど山ほどあるわけですし、求めているものとは異なった体験や経験などは当たり前で、ケ・セラセラの気持ちでなければ生きてられないような時のほうが多いかもしれません。

もともと現在の環境や両親を選んで生まれてきたわけではないのですから、自分の意志など通せずしてこの世に誕生したことを考えれば、当然の成り行きなのかもしれないわけです。

このように見てみると、現在の私が持つ興味や関心は、過去の時間の一点で接した事象や対象物との関わりによって意識が敏感に反応した接点であったに違いないところが発端となって現在に引き継がれてきていることなのですが、それではどうしてそのようなことに敏感に反応したのかといえば、ほとんど偶然でしかあり得ないような確率で私の意識を捉えているのだと思うのです。


「今の私の意識はどのように決定されて誕生したのか」という哲学的で心理学的で脳科学的な疑問に、私の意識はやはりたどり着いてしまうのです。

もしかしたらこの答えを見つけるために私は生きているのかもしれません。

そしてこの疑問に関連することなら、それが学問の如何なる分野であっても自然や天文学的な智恵・知識であっても、私にとってはどんなに奇奇怪怪で難解な論文集であっても、そこへと踏み入ずにはいられない私がいることも事実であり、それがまた私にとっては不可思議なことなのです。

そんなに難しく考えることなどない、馬鹿馬鹿しいと思えばそれまでなのですが、人間の興味や疑問は誰か他人に止められるようなものではありませんし、やめることさえもはや自分の意志では出来なくなってしまっているのです。

このように「疑問」や「興味」は誰かに教えてもらって覚えるから出来るようなものではありません。
自分の中からある意味「勝手に」沸きあがってくるようなものなのです。


例えば小さな子どもが夢中になって電車で遊んでいます。

その子は電車が大好きで、一目見ただけで日本中の電車の名前を言い当てます。
また彼はその電車が止まる駅さえも覚えており、順番を間違えずに全て言うことができます。

ではこの子は何故そこまで「電車」が好きで、興味があり、驚くような記憶力で電車に関する事柄を記憶として蓄積できるのでしょうか?
そしてそれが「何故」「彼」なのでしょうか?


答えとして「彼のお父さんが電車の運転手だから」とか「電車を小さい頃から見せていたから」とかいうような愚かなものを提供するのはやめて・・・

つまりは、彼の心に電車に対する興味を生まれさせ、わくわくするような好奇心に火をつけ、記憶することで電車への憧れと想像を広げて夢見ることができるように、もっとも彼に相応しい「対象物」を与えることが出来たのは「無意識」の成せる業なのです。


私はそれを「無意識の願望」と名づけて呼んでいます。

それは彼や私の意思とはほぼ関係ないところで勝手にわいてくるようなものなのです。

「エジソンの母」というタイトルのテレビドラマが放映されていました。先日最終回を迎えたのですが、結構楽しみながら毎週見ておりました。

ある日転校してきた小学1年生の少年は、好奇心がとても旺盛で、彼の疑問や好奇心がクラスや学校、友達や先生方を巻き込んでてんやわんやになるというストーリーなのですが、とにかく面白いものでした。

最終回も見事な終わり方をしていて、こちらも何だかすっきりした感が残るものになっていました。

なぜそこまで私の興味をひきつけたのかと言えば、それは「疑問」「好奇心」に罪はないという私の信念に火をつけたからだと思います。


人間が何に興味を持つのか、どのような時にその好奇心が生まれるのか、疑問はどのようにして湧き出るのかなどに、正しい道筋や答えはありません。

そしてその疑問の出所がその人を支えている無意識の人格によるものなのか、天からの命なのか、才能なのかはわかりませんが、ひとりでに自然にわいて出てくるのは確かだということです。


様々な学問的社会的な情報を背景にして「無意識」の本性について調べてきた私にとって、好奇心や創造の産物が何らかの形で無意識に関与しているという考えに行き当たったことは嬉しいことでした。
そしてその本性は脳領域の問題、神学的な問題、哲学的医学的な問題に真っ向から対決を挑んでいるのです。

誰でも人は何かの対象に興味を持つものです。




それが異性ならもちろんのこと、この世界にあるありとあらゆる事象・対象のうち何らかのことが心にやけに引っかかり、そこから想像や探究が始まるのです。

ところで最初の私の疑問についてですが、同じように答えを求めてやはり日々、無意識の願望に操られている人は少なくないと思います。

自分の意識する意志が望む望まないに関わらず、無意識にわいて出てくるものこそ自分の欲望を駆り立てる大いなる活動力となっているのは心的リビドーなのでしょうか? 

それとも側頭葉てんかん患者に多く見られる症状に類似した概念であり、感覚中枢と扁桃体との結合による何らかの影響による脳内研究対象の事例なのでしょうか? 

それとも超心理学的心的現象か進化心理学で議論・解釈されるべき問題なのでしょうか? 

そしてそれは神の啓示・アセンションと関係がある宗教的神学的理解が必要なのでしょうか・・・?!



魂の栄養である「情動」や「無意識の願望」は、普通に人間が暮らしていく上では、あまり意識されません。

例えば私たち人間が空気を吸うことを毎回意識しないように。

人が意識的意図的に出来ないような思考、願望や行為は無意識的なものです。そしてその無意識的なものには、たくさんの真理が隠されているのもまた真実なのです。


私の無意識への探究心という無意識の願望に、終わりは来ないように思います。

(^^)v
  • 2008.03.24 Monday
  • 09:53