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  • 2017.06.23 Friday
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神秘学

「我」

人はみな「我」に翻弄される旅にでる
そして人生半ばを過ぎて再び「我」に帰る

「我」ほど魅力的で、美しくて、夢と冒険を与えてくれるものはなく
「我」ほど無謀で残酷で、絶望のふちに突き落とされる経験をさせてくれるものはない

「我」が在ればこそ、この世は成立する
「我」が無ければ、この世で失う恐怖は何もない

我・・われ
己・・おのれ
私・・わたし

この世の「美」も「善・悪」も「愛」も「子孫」も
創造してきたのは誰でもない

「我」なのだから


「我」こそ永遠なのか

「我」こそ空想なのか

「我」を創りたまいし創造主の意図を
知るためにこそ「我」は在る





  • 2012.04.09 Monday
  • 18:09

神秘学

出会いと別れ

誰かに出会ったことで自分の人生が大きく変わる事ってよくあるけど、本当に不思議なことですね。

「出会い」と「別れ」って「運命」に等しい意味を持った言葉だと私は思っています。

人生が180度転換してしまうような仕事に出合うこともあれば、社会的信用から立場、長年培ってきた実績など全て一瞬のうちに失ってしまうこともあります。

お互いが別の相手と普通の人生を送っていたのに、ある時ある人に出会って心に衝撃を受け、自分たちの人生を捨ててでも二人で生きるという運命の選択をすることもあります。

100%の愛に満たされ、全ての人に祝福され、恋愛は結婚という確かな歩の道へと進んでいくのに、子どもが産まれたことがきっかけとなって、少しずつ愛のバランスと配分が違っていく。すると100%は三等分、四等分されて家族の中へと分散される。四分の一25%で物足りなくなった夫や妻は、少しずつ空洞を埋め補完しようとして結合や一体感から離れていく…


運命の流れは、出会いと別れによって変化しながら別の流れへと導かれていく。どんなに「そうしたくない」と思っても、行きたくない方向へと流されていく。
それが運命なら逆らっても無理なのが現実なのかもしれませんね。


数十年前にお世話になった会社の社長、もう今はなくなってしまった会社だから探すことも出来ないけど、やっぱりその人に会わなかったら、自分の人生、今のようになっていなかったはず…なんて。



恋愛も結婚も離婚も同じ。

どこまで縁が続くとか、性格が合うとか合わないとか、結婚したほうがいいとか離婚したほうがいいとかってね、運命の次元から見るとあまり関係ないみたい。
許そうと思えば許せるし、愛し続けたいと思えばそうなる。

出会いがもたらした意味、別れがもたらす意味、自分の人生観が変わった意味も含めて、それを決め、選んでいるのは「自分」という意識人間。


でも運命が変わる時にはすごいエネルギーがいるわね。


何しろ運命の方向が変わることで自分のそれまでの人生全てを失うかもしれないのだから。
慎重にはならなければいけないとは思う。



でも…

やっぱりそんなあり得ないチャンスか不思議がやってきたら、運命を受け止めてまっすぐに見つめあい、出会いであれ別離であれ、思いっきりぶつかり合ってボロボロになるまで自分を運命に預けてみるほうが私はいいと思うの。

ドロドロになって、ああもう自分てバカ〜!とか、何で私はこんなに不幸なんだ〜〜とか、自分が砕け散るほど悩むってことは心が成長する時の必要な過程だからね。


なぜ私はマヤの生命樹占いが好きなのかというと、それは私を教えてくれる道標になっているから。
毎日の時のサイクルのなかで、自分の内面の成長過程の中で、精神的霊的な修行過程の途中で、自分を振り返りながら確認することができるの。生命樹にはその不思議な魅力がある。


運命に翻弄されないよう、運命とともに生きる道を無意識に選んでいるのかもしれないわね。

   

誰のために
何のために
どうして今の自分の人生を生きるのか

それがわかるまで、人は出会いと別れの運命から解放されることはないと、私の大好きで尊敬する「カール・ユング博士」が教えてくれました。
(本から学んだだけですが…(^_^;))


私は普遍のものが好きです。

たとえば神話とか、創作品(芸術絵画や音楽、建造物や書物もそうかな)、石、山、宇宙とか真理を探究する学問や数学もある程度普遍かな^^

なぜならね、普遍の中では能動的創造を人は体験できて、そこに生きる希望の光が輝いているのを見ることができる気がするから。


☆出会いと別れの運命に翻弄されている人へ

現実で道に迷っているちっぽけな自分から少し離れて普遍の世界に思いを馳せ、自分をゆだねきってみませんか?!

愚かな自分を発見できたとき、自分らしい道が見つかってくるかもしれないですよ。


それでも翻弄され過ぎて自分を見失いそうだったら、マヤ生命樹で自分を知ってみてください!

何かがわかってくるかもしれないから^^♪

(^_-)-☆
  • 2010.06.15 Tuesday
  • 00:58

神秘学

不可視の世界とのつながり

「ハレルヤ」

キリスト教の信者に関係なく、この言葉を聞くと人は気持ちが楽になることがあります。
ヘブライ語で「主をほめたたえよ」の意味だそうですが、私は喜びをくれるおまじないの言葉だと思っています。

ビビデバビデブー、
ケ・セラセラ、
スーパーカーリーフラージリスティックエスピアリドーシャス

などのような魔法の言葉と同じように、言葉自体にあまり意味がなくても人に勇気や力を与えてくれるおなじないの言葉。

不可視世界と現実の可視世界をつなぐ「魔法の言葉」…だとは思いませんか?^^


人はふだん耳にするのを恐れているようなこと、またタブーなどを公の場で聞くと、そのおかげで苦悩から解き放たれるような気になってしまうことがあります。

たとえば「悪」

誰かの「悪」を話したり聞いたりするとき、人は自分に関わりのない他人の「悪事」なら、思いっきり責めることも否定することも可能です。

「あんなやり方で失敗するから会社をくびになるんだ」
「そうだそうだ」
「役職ある人間が社員と不倫するからこんなことになるんだ」
「そうだそうだ」

そこにあるのは、正義と真理の仮面をかぶって聖人君子の姿をした人間ですね。
しかし義人と呼べる人間なんて一人もいません。
その場にいる人にとって、その話題は自分の悩みや苦しみから一瞬解き放たれることを自分に正当化するために利用している偽善的な時間ではないでしょうか。

「大きな悪」を聞くとホッとする。
なぜなら自分の中にある「小さな悪」が安心するから。
ただそれだけのことなのです。



もう一つのたとえは「死」

死について語ることは時に誤解をさせてしまうことも、美化してしまいがちになる危険性も孕んでいるため、タブー視されています。

ところが「死」は私たち「生」ある存在にとって決して遠いものではありません。
遠いどころかすぐ隣にあるもの、ではないでしょうか。

肉体や物質としての「死」もあれば、精神的、社会的、人道的な死もあります。どれ一つとってもそんなに遠くて不思議な世界のことではありません。

死を知らない人にとって、死は恐ろしくて不安で怖くて暗いもの。恐れていても仕方がないのに恐れてしまうものですね。

「死」はマヤでは「世界の橋渡し」「扉」です。
この世とあの世を繋ぐ架け橋、時空の次元を行き来するための扉です。


この世界で「生」を持っている人間は、「生」を持っていない人と関わることはできません。その人たちと「死」について語らうことは不幸と認識されてしまうので、タブーなのです。

でも「生」と「死」がその人の友となっている人にとって、「生」を持っていない世界の話をすることは、普通です。
時に悲しみであり時に喜び・慰めであることを知っているからです。

  


200年も前ドイツにノヴァーリスという詩人がいました。
見える世界と見えない世界について、次のような詩を残しています。


すべての見えるものは、見えないものにさわっている
聞こえるものは、聞こえないものにさわっている
感じられるものは、感じられないものにさわっている
おそらく考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。


不可視世界と可視世界のつながりを、意識と無意識のつながりを予言していました。

一休禅師は
「有漏地(可視・煩悩の世界)より無漏地(不可視・本然の世界)へ帰る一休み」
と表現しています。


マヤの暦でも同じです。
「生」のグループのデイサインと「死」のグループのデイサインはコインの裏表となって繋がっています。



冥界のサインの人にとって、自分のコインの裏側には「生きる」力をもったサインがついていますし、「生」の力を持つサインの人にとって見えない世界の力を受ける冥界のサインがついています。
 
古代マヤの時代を生きた人たちは、インターネットという仮想世界が電話線や光を使って繋がるなどとは信じられないことだったはずです。
しかし、現代人が信じなくなった神や宇宙、天と人が繋がっていることは信じていました。


   


不可視の世界はいつも私たち「生」を持つ存在を後ろから支えています。
不運は幸運を支えています。そして悪は善を支えていますが善も悪を支えているのです。


苦悩から解き放たれることを望むのなら、それは可視世界で足掻き続けるよりも不可視の世界に身を任せて願い求めたほうが、いい答えをもらえる場合があるということを私は体験としてしっています。




MISERY(不運)⇒ ハレルヤ ラ ミゼラブル by Hide



  • 2010.03.25 Thursday
  • 20:24

神秘学

魔法の感覚

私にとってのスピリチュアルな感覚は「光」に大きく影響されています。

集合無意識の元型にある大いなる力と神々との接神体験、霊が時空を超えて身体から抜け出す体験や幻視体験をした後から、私にとって「光」はただの光ではなくなりました。
目に見えるこの世界の光は、どこか本当の光の影のような、コインの裏表のようなものではないかと感じるようになったのです。

    

それはまるで時空の扉が開いたような感覚、五感を通して感じていたものの内側に入っていくような脳内感覚、変性意識感覚のようなものです。

それを「アセンション」と呼ぶか「自己実現」や「多次元との接触」と呼ぶかは名称の違いだけで、私にとっての「光」は、魔法の感覚を持つという不思議な現実となって、そばに寄り添う友としてつねに私を支えるようになっているのです。

ユングは「皮膚は無意識の窓である」と述べています。

触れる(接触する)という人間の皮膚感覚は、広く深くとらえるとどうやら五感のいちばん根源にあるもののようです。

三叉神経痛の女性患者が右手の中指で「ピンク色」に触ると、顔面の痛みがやわらぎ、働きが良くなる、という例があったそうですから、皮膚が光センサーとしてもまた色を感じるということも実際にあるということがわかります。

元NHKディレクターで評論家の浦・達也氏は「仮想文明の誕生」という著書の中で、「匂いの記憶が世界を拓く」というコラムを書かれています。

人間に限らず動物では、生命の維持にかかせない匂いの記憶は、ほとんど半永久的に保存されるといいます。匂いの記憶は自分の意識がとうの昔に忘れてしまっているようなことを思い出させてくれ、無意識の大海の中を漂うなかでの灯台の明かりとなるのかもしれません。

一部を紹介してみましょう。

   


〜近代合理主義は、世界を「見えるもの」の集積として、一義的・一元的に把握しようとした。そういう世界認識の視線からは、微かな未来の徴候とか、遠い過去の記憶の索引のような「見えないもの・あいまいなもの」は排除されてしまう。しかし世界は、そんなに単純なものではない。個人の深層意識まで視線を下降させていけば、世界は多次元的な重層であることをあらわにする。

……人間は外部からの刺激を五感をとおしてキャッチし、それを脳内で構成して知覚する。通常意識のレベルでは、そうした刺激や感覚の関係がねじれたり、重なったりすることがない。ところが変性意識状態のもとでは、五感の分担があやしくなり、感覚が交錯してくる。つまり、意識レベルでは、脳は整然と五感の交通整理をしているが、深層の無意識レベルになると、「匂いで見る、皮膚で聴く」といった一種の錯乱状態を起こすということである。こういう状態を「共感覚」という。しかしこれは異常なことではない。なにを異常とするかは価値観の問題であり、人間存在を深層レベルまで含めて大きく全体性としてとらえれば、一見整然としている知覚のほうが異常で、共感覚が正常かもしれないのである。〜

 
感覚の窓が開かれるとき、万物は永遠の実相をあらわにするだろう。

これはイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの有名な章句です。

     

感覚の窓が開くということは、触る(触角)、見る(視覚)、聴く(聴覚)、嗅ぐ(臭覚)、味わう(味覚)の5感覚を通して、多次元的な感覚を体感することができるようになる、ということだと思います。



共感覚
Wikipedia


  

共感覚の世界


共時性という魔法
  • 2009.12.13 Sunday
  • 22:55

神秘学

声の調和と純正律♪

私は仕事柄、多くの人と電話を通じて話をします。

相手の顔も表情もわからない上に、基礎情報が乏しい状態で「初めまして」と挨拶をするわけです。


上手く会話がかみ合わずぎこちない進み方をする時もあれば、挨拶をして1分も経たないうちに打ち解けて会話ができる時もあります。

私は無意識に相手の方の声のトーンや波長、声帯から伝わってくる振動を通して、その人の心の状態を読み取っています。

また声には独特な色がついているように感じたり、光があってその濃淡によって調子やバランスを見分けていることもあります。


不協和音のように感じるコミュニケーションを、綺麗な音の響きあいに少しずつ変えていくことで、次第に会話がスムースになっていくという体験もよくしています。


相手の方が抱えている不安や悩んでいる状態も、そうしていくことで次第に調和が取れはじめていくので、最後にはとても美しいリズムや波動になっていると感じることがあります。

そういうとき相手の声の波長やバランスのとれた声エネルギーは、声を通して私に伝わりとても温かいエネルギーを受け取ることができます。

なぜそのようなことがあるのか、私も立証できる理論を持っていませんでした。
ただ「見えない声の波長を認識できる」というヒーリングパワーのひとつだと思っていました。




☆福岡大学理学部 物理科学科の教授が書かれている記事に、とても感動し、また共感できる音についての物理学的視点からみた理論が書かれていました。

福岡大学理学部 物理科学科 西田研究室

弦楽四重奏団のコンサートを聞きに行かれたときのこと、ホール全体が共鳴し天上から天使が舞い降りてきたように感じたそうですが、それが「純正律」によるのではと説明されています。

「純正律」とは音階の各音の間の振動数比を2:3 や4:5のような簡単な整数比で構成する音律のことだそうです。 これは物理学的に和音の協和度がより純粋なものなので、響きのよさを感じるのだそうです。


☆音の風景「サウンドスケープ」

「サウンドスケープ[soundscape]」という言葉は、「サウンド」と、「〜の眺め/景」を意味する接尾語「スケープ[-scape]」とを複合させたもので、カナダの現代音楽作曲家・音楽教育家 R.マリー・シェーファー [R.Murray Schafer]により1960年代末に提唱されたものだそうです。

サウンドスケープ協会



声も「音」です。

西田教授の言われるような響きのよい「純正律」が人間の声に感じることができるとしても、おかしくはありません。

何だか「声」の神秘をもっと信じたくなってきますね!




  • 2009.12.06 Sunday
  • 22:51

神秘学

自動書記と変性意識

自動書記〜Automatic writing〜

自動書記とは、魂や霊など高次元に存在する力を借りて、また特別に不思議な能力をもっている人の手が自動的に動き、文字や絵を書いたりキーボードをたたいて文字や文章を記述する現象をいいます。

自動書記を行うさいその人は、瞑想状態もしくはトランス状態、変性意識状態になって、その者の意志とはまったく関係なく、操られるように手が動いて文字が綴られていく状態が生じます。

神の目


人によって様々ですが、自分の母国語で綴る人もいれば、まったく聞いたことのない他国の言語や、古代の文字、または天界の妖精や天使らの言語ともいえるような象徴的言語で綴ることもあります。


私にもその経験があります。


初めての自動書記は24〜25歳位の頃でした。

仕事がオフで休日の午前中、洗濯物を干していた時のことです。
突然右手がカァ〜っと熱くなり、震えだしました。

びっくりした私は左手でその手を押さえ、「落ち着け!落ち着け!」と自分をなだめながらしばらく呆然と座っていました。

少しすると症状が治まってきました。
何か不安な病気じゃないといいけど…
そう思いながらまた洗濯物を干し始めたのです。

すると今度は「どうしても何か紙に書きたい!」という衝動に襲われたのです。


自分では洗濯物を干してしまいたいのに、自分の心の中は「そこへ座れ!そして紙を用意して鉛筆を手にもて!」というのです。
私は無意識の声に従うしかありませんでした。

しかたなくその通りにして座ると、私の意識は雷に打たれたように(ほんとうに雷に打たれたらどうなるか知らないのですが^^;)、そして私の右手はまるで何かに操られたように、白い紙の上にペンを走らせはじめたのです。


何枚書いたかわかりません。多分10枚から20枚は書いたと思います。

その走り書きの文字は、どうみても文字とはいえない、何か暗号のような古代アラビア文字のような、不思議な形が連なって、次々と記述が続いていました。


驚きながらも私の意識はあまりの不思議に、圧倒されていました。
手が勝手に走り出して、不思議な文字を綴ることが世の中にあることを、そのときまで私は知りませんでした。

自動書記というものがあると私が本で知ったのは、私の右手がすべてを綴り終えた数ヶ月後のことでした。


私の魂か霊が記述した文章は、私の目には何が書かれているか分かりません。

でも私の魂は、そのあと私に教えてくれました。

それが「宣言書」「誓い」であることを。

自動書記の目
(この目の瞳の中には自動書記で書かれた文字がつまっています


次に私の自動書記が始まったのは2004年、私の意識が変容し始めたころでした。

次元上昇に備えてすべては変化・変容しはじめていました。

年末だったと覚えています。
私の右手は突然、またあの時の感覚と同じ状態に置かれました。
そして一気に自動書記が始まりました。

ところが前回と異なることが一つありました。
古代アラビア文字だけでなくなったことです。

日本語も書きます。キーボードを通してタイピングもできます。
予言的な言葉もあるし、意味不明な言葉もあります。

こうして私の無意識からは膨大な集合無意識の神話素的智恵が流れ出し、言葉は原初の姿となって私の目の前に現れ始めたのです。



ヨハネの福音書1章
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」



その後私の変性した意識は時空を超え、3次元世界を抜け出して宇宙へと飛び出しました。


そのとき書かれた文を少しだけ紹介します。



「つたわらないことばからそのときくらいものになり、くらいくらいただいえすのみなによっておこなわれる。くらいをもってそのくだりのしらせをうけよ。」


「ふしぎなわざがどこまでもおこなわれるようにへびのくちをあけよ。つたわらないときはえいこうのおうのことばをもってとびらをたたけ」


「そのままにそのままにそしてそのままにことをなしたまえ。そのままくだけおちるときその口をあけてつきあがるひかりのなかをすすむようになしたまえ」


「テレシトゥマラジハナール ソレンナムハジク ステラモンドオラブライドレスト レナハンモレーテキオジュテモ ラーナハジスオンタショレンダーラン」


天が私に与えてくれた力は、私のものではありません。
私はただ天の力の凄さ素晴らしさを伝えるための通り良き器です。

自動書記を行いたいと思って、できるものではありません。

高次元の存在が事実であり、その力がある選ばれた人に啓示されることもまた事実だとしても、それは私たちの意志でどうにかできるものではないからです。


それができるのは「神」だけなのですから。
  • 2009.08.13 Thursday
  • 16:42

神秘学

目に見えない世界



私たち人間は、ものを見る「目」を二つ持っています。 
人工衛星や科学技術が発達した現代に至っては、地球上にあるものだけではなく、宇宙やミクロの世界でさえも目で見ることができるようになりました。

今から百年前には「見えなかったもの」「見えなかった世界」が、「見える」ようになったわけです。
しかし、人間の人体機能や生命のあり方が百年前と比べて、進歩や変化したのかといえばそんなことはありません。
寿命は延びたかもしれませんが、近代化時代に生きる私たちの各器官はむしろ、百年前と比べて劣化…退化していることさえ考えられるのではないでしょうか。

アフリカのアマゾン部落に住む人々の視力は、4〜5.0もあるといいます。
また自然と共に暮らしている人々の聴力は非常に優れていて、山を越えて聞こえてくるかすかな口笛のトーンを聞き分け、メッセージとして理解することができるのだそうです。


つい最近、夏休みを過ごしている小学生の娘と過ごしたときのことです。
私は、娘の見る力を司る脳の命令の弱さに驚きました。
娘には、目の前にあるものが見えない…認識されていない、という状況がよくあるのだと分かったのです。

「メリーポピンズ」に登場する魔女のお手伝いさんは、「目の前にあるのに見えない」大人の頑なな心理をうまく捉えて、歌にしています。
娘の例をとって、「目の前にあるのに見えない」ということがどのようなことかを、私も考えてみました。


1度目の驚き

私たちはレストランへ入り、ランチを注文しました。
しばらくの間、私たちは日常の出来事を話していました。
昨日の出来事を夢中になって話している彼女の前に、大好物のコーンスープが運ばれてきました。
彼女はスープ皿が目の前に置かれたのを確認し、少し間をおいてから再び話し始めました。ところが彼女は、いっこうにスープを飲もうとしません。私は彼女に言いました。
「コーンスープ、冷めちゃうよ」
すると彼女は、ハッとして目の前のスープ皿に目を移し、驚いていいました。
「えぇ〜〜!あったんだぁ! 知らなかった!」
私は驚きながら言いました。
「知らなかったって、さっきあなた自分でお皿を見てたでしょう!?」
「…?! そうだっけ? 何か持ってきたと思ったけど、コーンスープだとは知らなかったも〜ん!」

彼女の目に「何か」という「お皿」は見えていたけど、彼女の脳は無視していました。
「大好きないい匂いのコーンスープが来たよ!食べなさい!」というコマンドを、脳は出していなかったのでした。
つまり、彼女の目には「食べるコーンスープ」としては映っていなかったわけです!


2度目の驚き

その夜、食事が一段落してから私は、洗面所の棚の片付けをしました。
洗顔クリームや綿棒などを入れている箱の周辺を整頓したのです。
しばらくして、娘が訊ねてきました。
「ねえお母さん、水色のプール用の小物入れ、どこにしまったの?」
「どこに置いてあったの?」
「お母さんがさっき片付けた箱のところ!」
「お母さんしまってなんかないわよ、あるはずだから良く見てみなさい」
ところが娘は
「ねぇ〜、ないってば!」
しぶしぶ私は立ち上がって、洗面所へと行きました。
娘が探す箱の中には確かに小物入れはありませんでした。しかしすぐ隣のタオルの横に視線を移せば、そこにはちゃんと小物入れはあるのです。
私は驚いて言いました。
「ねえ、本当にないと言うの??」
「ないでしょ!」
仕方なく私は小物入れのある場所を指差しました。すると…
「え〜〜ぇ、こんなところにあるぅ〜〜! こっちまで目に入んないよ!」



娘の視野はそれほどまでに狭いのでしょうか!?
彼女の脳は「見る」場所だけをコマンドし、「そこにない場合は、周辺にまで視野を広げて探してみなさい」という命令を出しませんでした。
だから彼女の「目」に小物入れは映っているのに、「脳」はその物体が自分の探しているものだ、という認識が出来なかったのかもしれません。


探し物が目の前にあるのに、見つけられずに困ったこと、目に見えているはずのものが、脳に見落とされてしまっていることなど、このような経験は誰もが日常的にしていることです。
宇宙やミクロの世界まで見えるようになったというのに、私たち人間の「目」は頼りなく、信頼のおけない不確かなものなのです。



「目」に映るものだけを信頼して生きることは、それらのことから、とても危険なことだと理解できます。
「目」も「脳」も万能ではないのです。
そしてそのような不確かなものを盾にして、人が人を中傷したり、責めたりすることはまったくもって愚かなことだと思うのです。

私たち人間の周辺には、「目にうつる世界」と「目にうつらないもう一つの世界」とが存在しています。

目に映らず、耳に聞こえないという別の世界では、人間の持つ五感は機能は頼りになる器官ではありません。
実体のないものが主導権を握るのであって、「気」や「念」、「祈り」や「精神」、そしてまた「こころ」や「神」のように、捉えることが難しいものが存在している世界なのです。

そしてその目に見えない世界でも、自分以外の他者は存在するのですから、当然そこでは対話が交わされることもあるのです。

ヘルメス哲学者(錬金術哲学者)の一人であるルランドゥスは、次のように述べました。

「ある者が、目には見えない他者との内的な対話を交わす場合、たとえば自分が呼びかけた神と、あるいは自分自身と、あるいは自分自身の善き守護天使と対話をかわす場合、それが『瞑想』である。」
ユングは、それを「無意識の対決」と呼んでいるのです。

もし私が娘の「見えてるのに見えない目」の諸事情に対して、怒りや憤りを感じるようであれば、それは娘に対しての怒りなのではなく、私自身の無意識に対する怒りとして捉えるべきなのではないかと、私は考えています。

目に見えない世界を見ることができるのは、いつの時代も、人間についている2つの「目」なのではなく、「精神統一」「結合」された自分に備わっている「こころの目」であり、「未来を夢見る目」なのです。

「目の前にあるのに見えない」という状況があることを、自分が認識し、認めてあげて受け入れる、ことが始まりとなり、人間の心は成長と自己統一に向かって歩みだすことが可能となるのではないでしょうか。

娘にそのことを教えてあげられたことは嬉しいことでした。
と同時に、娘にとっても精神的成長の一歩が始まったのだということなのではないでしょうか。


  • 2008.08.03 Sunday
  • 12:50

神秘学

賢者の石を手にするには・・・

昔から 「石」 は不思議なアイテムとして世界中で大切にされてきました。



日本では石は「神や霊の入れもの」「たまごもる石」として信仰の対象となっていました。球体の石を信仰したり、隕石や水晶を祀る神社があったりと、人は石に神や霊魂が宿っていることを信じていたようです。
中国では石は薬でした。すりつぶしたり加熱して粉にしたり、他の薬草といっしょに煎じて飲んだりしていた様子が、中国の古い文献に記されているといいます。又、ギリシャでは石は様々な薬効力があると信じられていました。ルビーは風邪に、ダイヤモンドは解毒に、琥珀は扁桃腺炎や胃痛に効くといわれていたようです。


子どもや大人に大人気のハリー・ポッターシリーズ第一弾では、「賢者の石」が登場します。

ハリーたちは魔法学校に賢者の石が隠されていることを知り、石が悪者の手に渡らないよう自分たちの手で守ろうとします。賢者の石が何処にあるのかわからず、奮闘するハリーたちは「賢者の石」を見つける鍵が「鏡」であると知ります。鏡の仕掛けを何とか見破って石を探そうとしますが、驚くような方法でハリーは「賢者の石」を手にすることになります。
その秘密を知りたい方は「ハリー・ポッターと賢者の石」をお読みください♪
ハリー・ポッターと賢者の石 (1)
ハリー・ポッターと賢者の石 (1)
J.K. ローリング, J.K. Rowling, 松岡 佑子


中世の錬金術師たちは、この不思議な石・・・「黄金の石」「霊をはらむ奇跡の石」を求めて、探究し続けました。

「・・・もろもろの鉱物の中に隠れている不可視の水銀を、真髄において捉え、獲得するには、まず鉱物中からこの水銀を追い出さねばならない。そしてもしこの刺し貫くメルクリウスを手に入れることができれば、今度はこれを他のいろいろな物質の中に”投入”し、こららの物質を不完全な状態から完全な状態へと移行させることができる。この物質を石の中から抽出し、この物質の力によってあらゆる卑俗な物質を染色し、それらを高貴な物質へと変成しようとしたのだ。」

ところが「賢者の石」を発見できた錬金術師は決して多くはありませんでした。
この「石」は求める者の心を映し出す鏡によって、人を選んでその姿を現わしたり隠したり出来たのです。鏡が映し出すその人の心は偽ることは出来ません。

決して無闇に与えてはならないという神の掟をしっかりと守り、人の心の本心をうかがっているのが「賢者の石」が持つ力なのです。



では近代社会に生きる私たち現代人は、「賢者の石」を手にすることなど出来ないのでしょうか?
おとぎばなしやファンタジーの中でしか、効力を発揮しない過去の産物となってしまったのでしょうか?

ニュートンはこんなことを言っています。
「宗教に科学の真理を持ち込んではならない。さもないと宗教は異端になる。 科学に宗教の真理を持ち込んではならない。さもないと科学は空想的になる」

ニュートンの言葉を借りて表現するならば、「賢者の石」は宗教の世界にも科学の世界にも入ることができないまま、行き場を失いいくつもの時代をさまよっていたのです。
でも「石」には選ぶ使命がありますから、時の流れのなかで「賢者の石」を持つのにふさわしい人を選んでは与えてきたのだと思われます。そして選ばれた人々は「石」の力を手に、様々な形や方法でその秘密のありかを世に伝えようとしてきたのです。
時にそれは「才能」であり、「神業」でありまた「愛」「智恵」「奇跡」として効力を発揮しました。また実体のない「心」という学問の中にその居場所を得たとも言われています。

でももっと身近に、私たちは「賢者の石」を感じることはできないでしょうか?

小さな子どもが散歩の途中、道端に転がっている石を大事そうに眺めては持ち帰ることがよくあります。
大人から見れば何の変哲もない「ただの石ころ」です。
でも心が純真で、命の水の味をまだ忘れてはいない幼少の頃の彼らの目には、ただの石ころには見えていないに違いありません。
「賢者の石」の存在は、そのような純真な幼子らによって守られているのです。

それでは大人になった私たちには何も期待出来ないのでしょうか?
才能もない、芸術性もない、奇跡も不思議にも縁遠いと思っている人々にとっては「賢者の石」は空想の世界でのアイテムとしてしか存在しないのでしょうか?


実はあるのです。
「賢者の石」が隠れている場所を見つける方法が・・・!
  • 2008.02.23 Saturday
  • 18:50

神秘学

財産と価値観

会社を経営する人ならば誰しもが必ず通る道があります。
それは「資金繰り」「人材育成」という道です。
何度も乗り越えなくてはならない様々な高さのハードルです。

両者に共通しているのは、それが「会社にとって財産である」ということ、そしてもう一つはどちらも「扱う人によって活かすことも殺すこともできる」ということでしょう。



先日忙しい時間の合間に何気なくテレビを見ていると、手形の不渡りを出したどこかの会社の倒産の危機とその社長の様子を映し、何とかその状態からその法人を救い出したいと願う人とが描く現実の苦悩状況を生々しく報道していました。

私にとってそのような番組を見るのは、とても痛々しくて辛いものです。
父がオイルショックの折、会社を倒産させ、私がバブル崩壊とともに会社を失いました。さらに弟も同じような境遇で立ち直りを経験しています。

しかし倒産とはいかないまでも、そのような状況に立ち向かっているのはテレビに映し出されていた社長だけではありません。
誰しもが成功と失敗という経験を繰り返しながら生きています。

現代社会、毎日どれだけの会社が誕生しどれだけの会社が失われているか、その数は人の誕生に迫るほど多く、勢いさえ感じるのではないでしょうか。

そしてその誰もが通っている道が、先ほどの「資金繰り」と「人材育成」なのです。

ところでこの「人材育成」は、社長職だけではありません。すべての社会人もすべての家庭でも、人のいるところならどこにでもある「とても困難な道」として続いています。

学校では先生が子どもたちを育成し、家庭では親が子どもを育てています。
会社では先輩が後輩を指導育成し、社長は指導者を育成しています。

この扱い方が非常に難しい財産を、どのように使って法人を存続させていくのかが経営者の手腕にかかっているのですから、それこそ眠ることも休むことも削って財産管理に智恵を絞ることこそが「経営者」としての職務であり天命なのかもしれません。

また、親にとっては子どもが間違った道へ迷い込まないように、また先生にとっては学習面や社会生活面で、生徒が社会でしっかり自立できるように指導育成するために、寝る間も惜しんで「試行錯誤しながら考える」ことはとても大切なことでしょう。

そして人はそれを十分わかっているつもりで、取り組んでいるに違いありません。
そこには大きな落とし穴があることに気づかないまま・・・

それは先の例で言えば、失敗を自らの間違いであると認めたくないためにオイルショックやバブル崩壊という「どうしようもない経済状況」を言い訳にしている、という落とし穴です。

本当は、扱い難い財産の扱い方を間違ってしまった、見間違ってしまった、ハードルを飛び越えられなかった、ということなのです。でも、そんなこと自分にとってはどうしようもなかったんだからしょうがない、と考えなければ苦しすぎるのです。そのときは「言い訳」を選択することで、自分が生き続けることができるのです。しかし、それでは絶対に同じ高さのハードルは越えることはできません。しかもこの世で最も大切な財産である「人」と「お金」のことですから、言い訳で自分を誤魔化している間は、同じ道での失敗を再び犯しかねないと思うのです。

また子どもの育て方に間違いはつきものなのに、親の都合や考えばかり優先させ、自分は一生懸命育て、愛情を注ぎ、教育熱心だと自我自賛している親が結果子どもを殺してしまうという間違いも落とし穴ですし、生徒を学校社会できちんとさせることや学習習慣を身に付ける大切さを教えようと夢中になって、生徒の信頼を失うばかりでなく心を育てることや自信さえも奪ってしまうような愚かな教育者になってしまうという落とし穴もそうでしょう。



つまり「落とし穴」こそが、経営者にとって、指導者にとって、教育者にとって、親にとって価値あるもう一つの見えない「財産」であり「ギフト」なのだということに、私たちは気づかなければならないのです。

目に見える「お金」を使って資金繰りをする、目の前にいる「人材」を活かし育てる、ことにちゃんと向き合っている者へ、頑張っているご褒美として神がその人にプレゼントしてくださるのが「落とし穴」という目に見えない「宝の地図」なのです。

人間には、よく裏と表があるといいます。
裏と表
上下関係
強弱関係
善悪
これらは2次元しか知らない人間の価値観です。

そして
深さ広さ
頭脳と心
過去と未来
原因と結果
これらから導き出される道を知っている人間は、3次元の世界を生きる価値観を持っているはずです。

そしてさらに
学問・真理探究
神秘と不思議
創造と認識
などこれらのように、目に見えない力を受け入れて3次元の世界に活かすことの出来る人間は4次元に向かって光の道を歩むことのできる人なのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、マヤ文明に隠されている象徴秘儀と、予言に向き合っている私は明日48歳になります。
外では深深と降り続けている真っ白な雪が、地上の創造物を見事に覆っています。

この1年は、私が成すべきことに忠実で、すべてのことに実直で謙虚にあることが私の目標です。

現在進行中の象徴解読のための文章を掲載します。


カトゥン4アハウは11番目である。
チチェン・イツァがこのカトゥンの本陣である。それはイツァ族が居を定める時だろう。
緑のヤシュム鳥、ケツァル鳥が飛んでくるだろう。
アー・カンテナルがやってくるだろう。それは吐血の時だろう。
ククルカンが再び人々のなかにやってくるだろう。
以上のようなことが神の予言である。
イツァの首長がやってくるだろう。

マヤ神話〜チラム・バラムの予言〜 カトゥンの予言より


マヤの神聖暦で言うと、1993年4月5日、全グレートサイクルの最後のカツン(20年)が始まったようです。今話題となっている2012年12月21日頃に終わるとされるこのカツンに充てられている数字は「4」です。「4アハウ」は偉大な賢者「翼ある蛇」「ケツァルコアトル」「ククルカン」の帰還する日なのだといいます。

そのとき、4次元の視点をもっていない人間にとって、それは恐ろしいことなのかもしれません。
だからこそ、4次元の視点があることを知ってしまった人は全神経全精力を使って象徴言語を理解できるよう努力します。
そして最後にはそこから何かのギフトを得られると信じることができるからです。

(*^_^*)
  • 2008.02.03 Sunday
  • 10:55

神秘学

スピリチュアルなこと



先日久しぶりに夜の放映番組を見ていると、スピリチュアルなことについて数名のゲストと進行役が座談会のようなものを開催し、対談以上激論以下の討論をされていました。 視聴者の関心度と注目度の高さを受け止めながら、どのようなことを話しているのかと、しばらくの間楽しく拝見していました。

ジュネジャン

そのうちに私はあることに気がつきました。
それは、ある人間には人間の霊性は見えるけれども、人間の霊は形としては見えないという場合と、人間の霊は見えるのに霊性が見えていないという場合があるということでした。
そしてもうひとつは、人間の霊性が位置する、その次元の霊が形となって見えるということでした。
具体的に言うと、地上界で霊を見ることが出来るということは、見ている人は地上の次元において霊性を持っているので、普通の人と何ら変わるものではないということです。

地上に霊があるのと同じように、天上にも霊があります。
地上の波動に霊性が合っているときには、地上の霊視が可能でしょう。
そのように、天上の波動や森羅万象の根源、時空を超えた宇宙の波動に霊性が同化しているのであれば、天上の霊と交信することが可能なのです。



霊性が見えることと、人の「霊」や「オーラエネルギー」「守護霊」「背後霊」や「憑依霊」などのような、一般に「霊」と呼ばれる類の存在を見ることとは、まったく別のものであるということです。

「霊性」というものは、どんなものであるとか、こんなものであるとかはっきりとは言葉にして表現することができませんが、あえて言葉にしてみようとするならば、それは
「人の『心』が持ち秘めている、魂や霊の力道の有り様」
のようなものだと思います。

そしてこの霊性が高められている人は、同じような高まりの波動に反応します。 また逆に霊性が弱まっていたり、低い位置にある人は、同じような波動に同調します。
そのような波動反応を「類は類を呼ぶ」という諺で表すこともあるのだと思います。

私が生涯をかけて研究の課題としている、ユング心理学や神秘主義思想、錬金術や象徴哲学体系、原始キリスト教や古文書とグノーシス主義など、様々な文献や著書を読んでみると分かるのですが、天上における霊は普遍的に語り告げられているという真実を見いだします。

それらの書物を通して、天上の世界を見ることが出来る人々が啓示を受け、実際に存在していたことを伺い知ることが出来るということです。
そして最も大切なことは、神の秘密や叡智を知り、その天上の霊と交信したり変容によって一体化したりすることが出来るのは、天によって選ばれた者だけだと語られているのを発見する、ということです。

またそれらは真実であり、過去数千年の間も現在も変わることなく普遍的な要素を底辺に持ったまま、人間の無意識に受け継がれてきていることを発見するのです。

人は「霊」や「心霊」などのような怪奇で不可思議な現象の存在を、わからないが故に怖がったり、興味半分になってみたり、信じるとか信じないなどの論議の対象にしたりします。
人間の心は本当に弱いので、ともすれば暗示に掛かりやすく、そして霊性の度合いによっては波動に共鳴したり呼応したりしてしまうため、地上にさ迷う霊が下りてきて神憑り的な、また憑依したかのような状態になってしまうケースもあるのだと思います。

霊にもいろいろな種類の霊があるので、霊を見分けることが出来ないのに、霊を信じて受け取ってしまうことは、大きな危険を伴うのです。
神霊や聖霊のように、神から派生している霊が下りてくれば、イエス・キリストや空海、ゲーテ、モーツァルトやダ・ヴィンチのように聖者や天才となって、世にその力を知らせることが出来るでしょう。 
しかし邪霊や悪霊、怨霊や鬼霊、獣の霊などのように、決して反応してはいけない霊が下りてきたとしたら、それは危険極まりない状態になることが考えられるのではないでしょうか。

神に仕える者は、決してそのような愚かなことはしないのです。
自らの心が清められ、浄化されない限りは自分も、ましてや他人をも除霊したり浄化したりすることなど、出来ないということを知っているからではないでしょうか。
祈祷や祈りがなぜ大切か、どのような効力を持って悪霊や怨霊から守ることが出来るのかを神の言葉に忠実であり、また知っているからこそ、そのような行為が許されているのだと思うのです。

霊性を高めることも、自らの霊性を知って心の道に役立てることも、霊を知って霊と交わることも、人が一人で出来るようなことではないのです。
ゆえに「霊」の本性は、愚かな人間の目には隠されて見えないようにと、神の摂理が働いているのではないでしょうか。

霊を見分けることや霊を見たり霊性を知ることなどは、あくまでもスピリチュアルな側面に過ぎません。
スピリチュアルで元になる大切なことは、「自分の心探し」や「自分探し」なのではないでしょうか。
自分の心がどれだけ霊性やスピリチュアルなことを求めているかを知る、ということなのではないでしょうか。

人は人間の力の及ばない不思議なことや、人間という自分や他人の心がわからないから、神秘や精神世界に惹かれ、また旅に出たりするのではないでしょうか。
スピリチュアルな世界に興味を持っているときの人間の心と無意識は、その人の本当の興味が何処にあるかを、自分の意識以上に知っています。
その怖さを真摯に受け止めて、自らの心や霊性と向き合う覚悟が無い限り
スピリチュアルな世界は、日常のただの通過点に過ぎないのかもしれません。

かの有名なフリードリッヒ・ニーチェは、その生涯の最後の時期を悲痛な精神で終えたと言われています。 何故ニーチェのような天才詩人で、思想家のかの人がそのようになったのでしょうか。

ツァラトストラかく語りき 上 (1)
ツァラトストラかく語りき 上 (1)
ニーチェ, 竹山 道雄

私はある著書の中で、ニーチェが自分の作品を生み出すことに対して語っている言葉を発見して、感動しました。

「…自分の手で書いているのではないという感じがある。なによりはっきり気づくのは、頭のてっぺんから足の先までをつらぬく、身をふるわせる無限のスリルである―深い幸福感があり、そこではもっとも辛く陰惨な感情が、実質的には不調和ではなく、このあふれんばかりの光線のなかで、必要な色彩として要求される。……創造のエネルギーがもっとも自由に湧出しているとき、わたしの筋肉は最大に活動する。肉体が霊感を受けるのだ…」

これが神憑りでなくて何でしょうか。
これが霊感ではなく、何の才能でしょうか。

スピリチュアルの本性は、怪奇や不思議でもなく、神聖な心と創造を与える天からの霊感のようなものだと私は思っています。

  • 2007.04.17 Tuesday
  • 22:36