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  • 2018.04.13 Friday
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神秘学

目に見えない世界



私たち人間は、ものを見る「目」を二つ持っています。 
人工衛星や科学技術が発達した現代に至っては、地球上にあるものだけではなく、宇宙やミクロの世界でさえも目で見ることができるようになりました。

今から百年前には「見えなかったもの」「見えなかった世界」が、「見える」ようになったわけです。
しかし、人間の人体機能や生命のあり方が百年前と比べて、進歩や変化したのかといえばそんなことはありません。
寿命は延びたかもしれませんが、近代化時代に生きる私たちの各器官はむしろ、百年前と比べて劣化…退化していることさえ考えられるのではないでしょうか。

アフリカのアマゾン部落に住む人々の視力は、4〜5.0もあるといいます。
また自然と共に暮らしている人々の聴力は非常に優れていて、山を越えて聞こえてくるかすかな口笛のトーンを聞き分け、メッセージとして理解することができるのだそうです。


つい最近、夏休みを過ごしている小学生の娘と過ごしたときのことです。
私は、娘の見る力を司る脳の命令の弱さに驚きました。
娘には、目の前にあるものが見えない…認識されていない、という状況がよくあるのだと分かったのです。

「メリーポピンズ」に登場する魔女のお手伝いさんは、「目の前にあるのに見えない」大人の頑なな心理をうまく捉えて、歌にしています。
娘の例をとって、「目の前にあるのに見えない」ということがどのようなことかを、私も考えてみました。


1度目の驚き

私たちはレストランへ入り、ランチを注文しました。
しばらくの間、私たちは日常の出来事を話していました。
昨日の出来事を夢中になって話している彼女の前に、大好物のコーンスープが運ばれてきました。
彼女はスープ皿が目の前に置かれたのを確認し、少し間をおいてから再び話し始めました。ところが彼女は、いっこうにスープを飲もうとしません。私は彼女に言いました。
「コーンスープ、冷めちゃうよ」
すると彼女は、ハッとして目の前のスープ皿に目を移し、驚いていいました。
「えぇ〜〜!あったんだぁ! 知らなかった!」
私は驚きながら言いました。
「知らなかったって、さっきあなた自分でお皿を見てたでしょう!?」
「…?! そうだっけ? 何か持ってきたと思ったけど、コーンスープだとは知らなかったも〜ん!」

彼女の目に「何か」という「お皿」は見えていたけど、彼女の脳は無視していました。
「大好きないい匂いのコーンスープが来たよ!食べなさい!」というコマンドを、脳は出していなかったのでした。
つまり、彼女の目には「食べるコーンスープ」としては映っていなかったわけです!


2度目の驚き

その夜、食事が一段落してから私は、洗面所の棚の片付けをしました。
洗顔クリームや綿棒などを入れている箱の周辺を整頓したのです。
しばらくして、娘が訊ねてきました。
「ねえお母さん、水色のプール用の小物入れ、どこにしまったの?」
「どこに置いてあったの?」
「お母さんがさっき片付けた箱のところ!」
「お母さんしまってなんかないわよ、あるはずだから良く見てみなさい」
ところが娘は
「ねぇ〜、ないってば!」
しぶしぶ私は立ち上がって、洗面所へと行きました。
娘が探す箱の中には確かに小物入れはありませんでした。しかしすぐ隣のタオルの横に視線を移せば、そこにはちゃんと小物入れはあるのです。
私は驚いて言いました。
「ねえ、本当にないと言うの??」
「ないでしょ!」
仕方なく私は小物入れのある場所を指差しました。すると…
「え〜〜ぇ、こんなところにあるぅ〜〜! こっちまで目に入んないよ!」



娘の視野はそれほどまでに狭いのでしょうか!?
彼女の脳は「見る」場所だけをコマンドし、「そこにない場合は、周辺にまで視野を広げて探してみなさい」という命令を出しませんでした。
だから彼女の「目」に小物入れは映っているのに、「脳」はその物体が自分の探しているものだ、という認識が出来なかったのかもしれません。


探し物が目の前にあるのに、見つけられずに困ったこと、目に見えているはずのものが、脳に見落とされてしまっていることなど、このような経験は誰もが日常的にしていることです。
宇宙やミクロの世界まで見えるようになったというのに、私たち人間の「目」は頼りなく、信頼のおけない不確かなものなのです。



「目」に映るものだけを信頼して生きることは、それらのことから、とても危険なことだと理解できます。
「目」も「脳」も万能ではないのです。
そしてそのような不確かなものを盾にして、人が人を中傷したり、責めたりすることはまったくもって愚かなことだと思うのです。

私たち人間の周辺には、「目にうつる世界」と「目にうつらないもう一つの世界」とが存在しています。

目に映らず、耳に聞こえないという別の世界では、人間の持つ五感は機能は頼りになる器官ではありません。
実体のないものが主導権を握るのであって、「気」や「念」、「祈り」や「精神」、そしてまた「こころ」や「神」のように、捉えることが難しいものが存在している世界なのです。

そしてその目に見えない世界でも、自分以外の他者は存在するのですから、当然そこでは対話が交わされることもあるのです。

ヘルメス哲学者(錬金術哲学者)の一人であるルランドゥスは、次のように述べました。

「ある者が、目には見えない他者との内的な対話を交わす場合、たとえば自分が呼びかけた神と、あるいは自分自身と、あるいは自分自身の善き守護天使と対話をかわす場合、それが『瞑想』である。」
ユングは、それを「無意識の対決」と呼んでいるのです。

もし私が娘の「見えてるのに見えない目」の諸事情に対して、怒りや憤りを感じるようであれば、それは娘に対しての怒りなのではなく、私自身の無意識に対する怒りとして捉えるべきなのではないかと、私は考えています。

目に見えない世界を見ることができるのは、いつの時代も、人間についている2つの「目」なのではなく、「精神統一」「結合」された自分に備わっている「こころの目」であり、「未来を夢見る目」なのです。

「目の前にあるのに見えない」という状況があることを、自分が認識し、認めてあげて受け入れる、ことが始まりとなり、人間の心は成長と自己統一に向かって歩みだすことが可能となるのではないでしょうか。

娘にそのことを教えてあげられたことは嬉しいことでした。
と同時に、娘にとっても精神的成長の一歩が始まったのだということなのではないでしょうか。


  • 2008.08.03 Sunday
  • 12:50

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  • 2018.04.13 Friday
  • 12:50
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