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  • 2018.04.13 Friday
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地球学

真の自由と愛ある1タラント

「自由であること」と「自由になること」は私の中では大きく違っています。

自由であることは、今の日本では国民に与えられ保障されている無色透明な法律です。
誰もが自分という個人の人権と自由を保障されている、そして「あなたは自由なのだから」として人生の自由選択を求められています。
でもこのことが「自由であること」だと私には思えません。
「自由であること」という制約付きの不自由なのです。



自由になることとは、すべての制約から自分が解放されることです。
すべての制約…つまり、すべて当たり前だと信じて思って生きてきた価値観から、規則や道徳観、そして人間であることの基本的概念、既成概念、固定概念などの全てから自分の意識を放つことが出来たとき、本当の意味での「自由」が与えられ、「自由になること」が出来るのだと思うのです。
だからといって、好き勝手なことをすることが自由ではないのは当然です。


人が生まれたときから与えられているものは「自由」なのではなく、「自由になること」への制約つき自由なのだと思います。

何故このように「自由」に拘るのかと言うと、この「自由」は「愛」と同じような性質と二面性を持っていて、恐ろしくてかくも素晴らしく魔法のような「ことば」だからです。

「あなたにはどちらを選択してもよいという自由が与えられてるわ」
「君には自由意志があるのだから、それを尊重しよう」
「お母さんはあなたを信じてる。だから自由に生きていくのを応援してるじゃないの!」
「お願いだから俺を自由にしてくれ!」

これらの「自由」が本当の意味での自由について語られているのかを考えてみてください。

自由は人に与えられるものではない!
自由意思とは、尊重されるときとそうでないときがある!
自由に生きることが自由になることではない!
自由になりたいのに自由は与えられない

そんな意味合いが隠されてはいませんか?

すべての制約から解放されて自由になっている人間には、どれが真の自由な姿か偽りの自由かを見分けることが可能です。そして自由の素晴らしさと恐ろしさを知ることで、自由を敵にも味方にもつけることができる才能を身につけることも出来るようになります。

「愛」を武器にして生きる人がいるように、「自由」という武器を手に入れて生きていくのです。



お笑い番組のエンディングで、ギターを弾きながら「○○イズ フリーダム! ○○イズ フリーダム…」とネタを歌にしながら、最後に「○○は自由だ〜〜!」と叫ぶギャグがあります。
いつも楽しく拝聴しているのですが、何とも自由の心理を上手くつかんだものだと感心させられています。
「自由」は常にどちらかを選択する意志として、彼のネタに取り入れられているようです。
星

ところで人間には、誰にでも何か特別な力やタレントが与えられています。
しかしその能力やタレントにその人自身が気づき、現実に活かせるか否かなどは誰もわかっていません。
そしてその力が活かせるとしても、そのことがその人にととって幸せであるとも限りません。
ここでいう「タレント」とは、聖書の「タラントのたとえ」に出てくるような意味として捉えます。

「タラントのたとえ話」については、検索をすればたくさんのサイトがありますので、一度読んでみてください。(幸せのおとずれ タラントのたとえ話)

タラントという言葉を英語でいえば「タレント」なのですが、能力や才能、クリスチャン用語でいえば「賜物」として理解されてきたようです。
それらはすべて、この「タラント」のたとえ話から派生してきた意味のようです。「与えられたタラントを用いて…」というふうに、与えられた賜物・能力を生かして…という意味で使います。

本来の「タラント」の意味は、重さを量る「はかり」のことで、重さ、金のをあらわす単位にもなったようです。
聖書では当時、1タラントは6000デナリとあります。1デナリは、労働者の一日分の給料に相当します。一日1万円と見積もれば6000万円、安く見積もって5000円としても、およそ3千万円という金額になります。




私には、このタラントこそが「自由」や「愛」に近いものとして感じられます。

1タラントをもらった人、5タラントをもらった人、それぞれその人たちは感じ方も使い方も違います。
タラントを活かすも殺すもその人にまかされているのですが、そこには損得感情や欲も重なって正しくタラントを用いることができないかもしれません。

愛については特に、そのような場面を想像させる多くの出来事があります。

1タラント分の愛を与えられているひとは5タラント分の愛を与えられている人を羨んだり、自分を惨めに思ったりすることがあります。また、1タラント分の自由しかないと感じるひともいれば、5タラント分の自由が与えられていることを愛情がなかったと感じて誤解している人もいます。
自由や愛は、はかりでは計れないものであり、お金に換算することもできません。
だからこそ、その人自身の考え方によるところが大きいのではないでしょうか。

究極のところ、その力やタラントはその人の「生き方」「考え方」「思い方」に影響するものであって、どんなに素晴らしいタレントを持っているとしても、そのような自分を生きることが出来るかどうか、タラントを活かせるかどうかは、本人にまかされているのではないでしょうか。

同じように、自由も愛も、与えられているものとして理解し、量りやものさしではかられ、多い少ないで人生を束縛していては、増えるどころか自分を殺してしまうに違いありません。
最初は与えられたものであっても、最終的にはほんとうに自分のものとして受け止め、そのタラントを何倍・何十倍・何千倍にも増やすことができる…それこそが、真の自由と愛を手にすることなのではないかと思うのです。

ちなみに私が本当の自由と愛を手にすることが出来たのは、44才の頃です。
人間とは欲深く、自我が強く、自分を知らず、思いのほか手こずる生きものです。
自分が何タラントもらっているかなんて、本当は関係ないのです。

真の自由を手にすることは、鳥が空を飛ぶための羽を手にするようなものです。
魚が海の中を泳ぎ回るためのエラ呼吸を手にするようなものです。
春に芽生えたタンポポの花のようです。種を残すための綿毛は、風に乗って飛ばされますが、そこにもうタンポポの意志などは通用しません。

自由になれて初めて気づいたことは、全ての制約をつくっていたのは法律でも社会でも親でもなく、自分の心だったということです。
私に与えられている真の「自由と愛ある1タラント」は、私だけに与えられていたものなんかじゃなくて、皆に与えられてるものなのです。ただ違うのは、その種類や形、色なのであって、そのタラントが一番輝ける場所が、その人自身なのだということなのです。
私に与えられたタラントを輝かせることができるのは、私だけなのです。
同じように、娘、息子に与えられているタラントは、彼ら自身の中でしか見つけられず、輝けない。
そんなものなのかもしれません。

あなた自身の中に眠っている「真の自由と愛ある1タラント」は、何なのでしょう?!
(*^_^*)

みなさんの心が真の自由を得られるよう、祈っています。
  • 2008.08.23 Saturday
  • 13:24

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