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  • 2018.04.13 Friday
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無意識の真実

幻視…白日夢



皆さんは昼間、起きながらにして夢を見たことはあるでしょうか?
そのような現象を、幻視とか白日夢と言うようですが過去の書物を紐解いてみると、結構そのような不思議な体験をしている人がいるのです。
C・G・ユング心理学博士もそうですが、スウェーデンボルグもウィリアムブレイクも、そのほか芸術家や神秘家と呼ばれる人々の中にはそのような体験を持った方が多く存在しています。

超自然的なビジョン(幻視)を視たり、音を聞いたりということは、すべての人が経験するものではないかもしれません。
でもそれよりももっと普遍的一般に見られるのが「夢」であり「夢」なくしては現代の心理学は説けないといわれるほどに、超個人的な意識と交信できる主要な媒体であると言われています。

神秘主義ということばは、一般にいうと個人的な宗教体験を通してこの現実の人生にいながら「神」を直接的に知ること。と定義されています。
キリスト教でも数多くのプロテスタント神秘家がいます。
ルター、ヤコブ・ベーメ、スウェーデンボリ、ワーズワース、ゴッホもそうであったと記されています。

幻視や白日夢、神秘的超自然現象は、第一に「祈り」または「瞑想」の状態で神に接触することで、創造主と被造物との間が合一されることであると言われています。

体験したり視たり聞いたりしていない人にとって、そのような話しを聞いても、信じることができません。一般的には空想話のようで、愚かしいことのように感じてしまうような内容だからでしょう。
しかし圧倒的な力を持って得た神体験は、根本的な所で人を変える力があるため、神秘的な事柄を現実に表現するための方法を模索することになり、芸術や文学、音楽などを通して、体験を表現しようと試みるわけです。

幻視や幻と聞くと、何か幽霊的な亡霊や怪奇現象を想像されてしまいがちですが、それは星の裏側を見ているに過ぎません。
星にも必ず太陽が当たる(光が当たる)場所があるのです。
幻視や霊視ができる人は、良いもの(光があたる次元)も悪いもの(光のあたらない次元)も見えてしまうということです。
それは、その人の心の形相であり、人間の神的エネルギーであるものが、人間の第三の眼を通して映し出されるからなのです。

ユングは病に倒れ、病院のベッドで眠っていたとき、足元にキリストが立っているのを視たといいます。
そしてそれはユングにとっての幻視・白日夢・神体験なのです。

私にもそれに似た体験があります。
私が昼間静かに音楽を聴きながら瞑想していると、目の前に神殿が現われました。神殿はたくさんの宝石で飾られ建造されています。
西に位置する神殿から、東に向かって四角に囲われた大庭があります。
大庭にはいのちの木と十二種の癒しの木と、知恵の木が植えられていて、見たこともないような美しい花が咲いています。

神殿の下からは、水が流れ出ています。その水は東に向かって流れており、その水の中に浸ると肉体も精神も聖められるいのちの水の川のようです。
東北の位置に大きな水瓶がありました。その瓶を通して地上へといのちの水が注がれていました…




私にとってこのような幻視体験と夢は、どのような意味を持つのか又どのように理解すればよいのか、自分自身を知るための探究の道へと進むことになりました。

無意識の世界にたどり着いたのもそのような体験があるからです。
魔法や錬金術の世界を描きだしたのも、
そのような幻視を現実に表現しようと思ったからでした。


夜、人は眠りについて心身を休めます。
無意識はその間に活動しています。
そして昼はその逆の状態が起きています。
でも、無意識が自己の中で活性化され、自分の意識と統合することが出来るならば、無意識はイメージを意識にいつでも送り出すことが可能なのです。

無意識や夢、幻視や白日夢は次元を超越しているため、
人間の意識が理解できるような方法では伝達されません。
心の中奥深くにしまいこまれているものが、別の形をとって現れることもあれば、元型となって主張してくることもあります。
また、普遍的なイメージとなって知らせてくることも、
共時性となって現実にも共鳴する事象を見せてくれることもあるのです。



それらはあなた自身へのサインであり、メッセージだと私は思います。
私にとって幻視や夢は、私の人生を変えました。
また私は、あるがままに生きることを受け入れることが出来るようになりました。
現実の重荷はたくさんありますが、精神の重荷からは解放されたのです。
そしてわかったことで何より大事なことは、

精神の重荷となっていた十字架は、実は自分自身の自我だった
ということなのです。



  • 2006.12.14 Thursday
  • 09:59

無意識の真実

不公平に潜む心の真実


「不公平」という言葉が私は嫌いです。
不公平とは、公平でないこと、かたよっていて平等でないこと、という意味ですが、この言葉はとても厄介者なのです。
不公平=公平でない、平等でない様子

平等や公平というのは、人によって価値観も認識方法も違うのです。
不公平と感じる側と不公平だと取り扱う側の考えが同義で認識が同じでない限り、不公平はなくならないのです。


ここで何か気づきませんか?
これは現代の社会問題となっている「いじめ」と同じ問題点ではないでしょうか?

報道されている内容では、いじめの定義としていじめられた側がいじめと感じたら、それはいじめになるとしています。
いじめた人が、たとえいじめているなどとは考えていなくても、いじめた行為だとされる、というものです。

不公平も同じです。
兄弟げんかの一番の原因は親の扱いが「不公平」だと感じることによるものが多いそうです。 お父さんもお母さんも子どもを不公平に扱ってやる!などと考えているはずがありません。
でも、子どもは不公平だと感じてしまうのです。いじめと同じように定義するなら、子どもが不公平だと感じたら、それは親が不公平と扱っている…となるでしょう。

この「不公平」を感じる心の裏側には
どんな気持ちが潜んでいるのでしょう。

不公平には、必ず対象があります。
誰かと比べているから、不公平だと主張するわけです。
自分の身の上が不幸だとして不公平を感じるのは、誰か幸せな人と比べた人が感じる気持ちですし、お兄ちゃんばっかり買ってもらってずるい!と感じる弟は、お兄ちゃんと自分を比較するから不公平だと感じているのです。

そして、不公平には欲求や願望の投影が潜んでいます。
自分はそうなりたいのになれないという不満
自分は欲しいのに、手に入れられないという欲求不満
自分は相手に対して平等なはずだという主張
それらが心の中で葛藤して、不平等だと感じる何かのきっかけを掴んだ
瞬間から、それらの欲求や願望が渦巻いて、相手との不公平さに投影されて
出てくるのです。

だから、不公平など本当は存在しなくても「不公平」だと感じることで心の中に溜まっていたものが噴出してきているのだと思うのです。

不公平をなくすことなど出来ないという理由はそこにあるのです。
心の中の欲求や願望の投影が「不公平」というスクリーンに映しやすいからなのです。
人間の心の中には、たくさんの煩悩が潜んでいます。
108つの煩悩があるとも云われる所以です。
三毒といわれる「貪欲」「愚痴」「瞋恚」がもっともな諸悪の根源だそうです。
仏教の世界ではそれらは、自己中心の考え、それにもとづく事物への執着から生じるのだと言われています。

この煩悩によって自己を見失っている人にとって、
「不公平」は日常的に顔を出すことが多いのです。

子どものうちは頻繁に登場しています。
「友達が携帯電話を持ってるから、ぼくにも買って!」
「友達がダンスを習っているから、私も習いたい!」
「お姉ちゃんが洋服買ったなら、私にも買って!」

不公平がちょっと次元進化すると
「あいつ、携帯電話持ってるからって自慢してね? 携帯トイレに入れちゃおうぜ!」
「あの子ダンスが上手いけど、勉強出来ないじゃない! 教科書にダンスしてるところ、書いちゃおうよ!」
「お姉ちゃんばっか買ってもらうなら、お姉ちゃんの大事にしてるバック壊してやろう!」

いじめや嫌がらせとなって顔を出し始める可能性があるのです。

不公平は、なくなりません。
いじめも多分なくすことは出来ないでしょう。

では、どうすればよいでしょうか?!

まずは大人が不公平を持っていること、いじめる気持ちを隠し持っていることに対して正直に認めることです。
自分を振り返ってみましょう。

「パパは何でも外で美味しいものを食べれるんだから、今日は贅沢しましょ!」
「○○ちゃんのお家では外車を買ったらしいから、うちもそろそろ車を買い替えましょうよ!」
「私だってたまにはおしゃれくらいしたいわよ!」
「何で私ばっかり子どもの犠牲にならなくちゃいけないの?!」
「うちの嫁はまったく気が利かないから、少し懲らしめてやらなくちゃ!」

そんな大人の気持ちがあることを子どもは無言のうちに察知します。
子どもは大人の心の鏡です。
大人が隠し持っている煩悩や抑圧された願望や欲望を、大人が気づいていないのにも関わらず、子どもが察知しているケースもあるのです。
平等であることも公平であることも大切ですが、その前にもっと大切なのは、大人が自分の心に潜んでいる悪の根源に気づいて反省したり、認めたりすることなのです。

それが出来ないのなら、せめて大人が正直に自分の心にも「不公平」や「不平等」「いじめる根源」を持っていることを認め、その煩悩と戦っていることを教えてあげることです。
自分と同じように親も大人も戦っていることを知ったら、きっと子どももそれを聞いた大人も、同じように戦うことを目指すことが出来るはずだからです。

私は「不公平」「不平等」という言葉が嫌いです。
そして生きている限り、私は自分に襲い掛かってくる数々の誘惑や悪の根源と正々堂々と戦っていきたいと心から願っています。
いじめがなくなる社会を作りたいなら、
一人一人がそのことを自覚するしかないのです。
  • 2006.12.12 Tuesday
  • 09:06

魔法

一人でいるあなたへ…

友達や家族がいても、
何も不幸な身の上なんかなくても、
ひとりぼっちだなぁ〜って感じてしまう…

自分を思ってくれる人がいても、
好きな人がいても、
孤独感があることに嘘はつけないって思ってしまう…

そんな気持ちになっている人がいたら、
私は伝えたい。
ひとりぼっちであることの楽しさを…。

寂しいって感じることも
ひとりぼっちって感じることも
自然なこと。

家族がどんなに愛してくれているとしても、
好きな人にどんなに愛されているとしても、
他人には入れない自分だけの領域があるから。

それは人間であることに向き合っている証拠だから。

生まれて来たときもたった一人。
死ぬ時もたった一人。
一人に理由なんてない…

私は一人でいることが楽しい。
自分が自分のままでいられるから。
自分が思ったとおりのことができるから。
自分が楽しいと思う世界を、想像したり描いたりできるから。

でもひとつ言えば、ひとりぼっちには落とし穴がある。
それは…孤独感に我慢できないような妄想。

ひとりぼっちじゃない人がいる…と想像すること。
一人が惨めになるような錯覚を感じること。
一人ぼっちが悲しいと誤解させる悪魔のささやきを聞いてしまうこと。

何処かの小説で、誰かが言っていた。
一人でいるのが楽しい…素晴らしい…
と知っている人同士が一緒になると、楽しさは二倍以上になる・・・と。

一人でいるのが寂しい…悲しい…
と思っている人同士が一緒になると、寂しさ悲しさは二倍以上になるから。

どんなに辛いことがあっても
どんなに悲しい現実があっても
空しさ
悲しさ
侘びしさがあっても

一人でいるときを大切にしてみて。
ひとりでいるときこそ、自分を取り戻せるチャンスだから。


魔法のことば…それは

私は私をだいすきだよ。
私は私にとってかけがえのない、大切なひとだよ。



自分ひとりで何でも乗り越えなくってもいい。
自分だけで閉じ込めなくてもいい。

もっと自分を信じてあげて欲しい。
私らしく
あなたらしく
人間らしく あるために。

大切なあなたへのメッセージ。
(^^)v
  • 2006.12.08 Friday
  • 19:20