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  • 2018.04.13 Friday
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社会・規則

常識・道徳って…?



よく人は「あの人は常識がない」とか、「道徳観念が無い」などと他人を非難したり蔑んだりします。
では、このときの『常識』や『道徳』って一体なんでしょうか?

私たちが生まれたときは、個々人かならず両親と国を所持しています。私は日本で生まれましたが、日本人でも外国で生まれることだってあります。また、両親がそろっていなくて生まれることもありますが、何れにしても処女から生まれるのはイエス・キリストだけですから、親である存在自体はいるのです。
 ここで気づいて欲しいのは、その「父」「母」「国」の3本の柱が個々人の常識や道徳を決定する根本要因になっているということです。

幼少のうちは「しつけ」という名のもとに、常識や道徳を教えますし、愛情の延長線上に飴と鞭を置いて進むべき道を間違わないように指導します。そして何よりもその人が所属している「国」の法律や規則を守ることが要求されてきますから、そこから逸脱することは『罪』であると教えるわけです。
また、この3本の柱が主張することと大きくかけ離れたことを考えたり行動したりすることも『罪』『悪いこと』であるという概念を小さい頃から教え込まれて育つわけです。
 それらは当たり前のこと故に、あまり取り上げて深く考える必要の無いことと認識されます。特に日本という国は縦社会の歴史を形成して来ましたから、天皇陛下は神様になり、国家権力は第一格であり、国家を支える人物や頭脳を最高指導者と認識します。そしてそれらが国の特色を形成しているため、善・悪の認識も、常識も道徳も全てにおいて実質指導権を握って君臨しているのです。

それが悪いとは決して言っているわけではありません。 ただ、ありのままに仕組みを述べているのだと認識していてください。

さて、ここからが本題です。
3本の柱が『真の愛情』というフィルターを通って正しく機能しているときは、何も問題ではありませんし、この上ない幸せと充実した人生を安心して暮らせることでしょう。
そのような個々人の意識の中には、安定した柱と家が築き上げられていますから、3本の柱が2本になり、やがては自分がそのうちの1本の柱となる時がやってきても、柱が壊れたり3本の柱で築き上げた家が崩壊したりしないように努力をするようになるのです。

では次のような場合はどうでしょうか。
1)3本の柱が何らかの事故や災害で崩壊してしまったり、
  家を失ってしまったりした場合
2)最初から3本の柱に『真の愛情』が無く、
  偽の愛情である上に押し付けられ、支配されてしまう場合
3)3本の柱が無い場合
4)3本の柱を信頼できなくなる出来事に出会った場合

本来人間は、親子であっても人格を別に持っています。まったく同じような考え方や意思を持っていたらそれは異常です。子として生まれた意味がありません。価値観も違えば趣味も気質も全て違っているのが普通なのです。そこで3本の柱のうちの父と母である2本が、どのように子と接して暮らすかは重大かつ重要な問題なのです。なぜならその2本の柱は1本の柱と協力し合って、子が本来の人格を生かすことになるか殺してしまうかの分かれ道になるからです。さらに、この2本の柱は、1本の柱である『国』を超えた『世界』という大きな柱のもとへと誘ってあげられる可能性をも握っているのです。
 子どもの一生を左右するのと同じように、会社であれば社員の、学校であれば生徒らの育成によって、関わった人間の人格を左右することになるのです。

上の4つの例を考えてみることは、そこにとても大切な真実の意義を見いだします。
3本の柱を知らないで育った人だからといって、常識が無いかといえばそんなことはありませんし、どんなに見かけ上に3本の柱と家がしっかりしていても、2)のように支配関係の中にいればそれは棚の上の牡丹餅であり、わらで建てた家と同じです。また、柱を信頼できないのであれば、信頼ある柱に自らがなればいいのです。

「常識がない」「道徳観念がない」などという考えは、実は上の4つのいずれかに該当する意識の中にいた可能性のある人々が持つことが多いのです。3本の柱が真の愛情によって正しく機能している人や、3本の柱という家から巣立ち、世界という大きな舞台に立って3本の柱を見ることの出来る人々がどのように考えるかというと、それは常識が無いという非難の枠ではなく、個人の個性、特性であるとして認識されるものなのです。たとえそれが普通から逸脱していても、おかしいように思えても、あくまでもそれは自分と違う個性を持った人格であるという認識を生み出すのです。なので、そこには非難も中傷も生まれません。犯罪に関わる罪でなければ、金色の髪をしたり唇にピアスをあけて国会にその人に会いに行ったとしても、それはその人の個性なのであって常識知らずの悪人なんかではないのです。

「罪」に関しても世界に目を向ければ、罪の概念が大きく違うことが理解できるでしょう。
たとえば、タイ国では、子どもの頭に手を置くことはいけないこととされていますが、日本では子どもの頭をいい子いい子と撫でることは悪いことではありません。また、首長族の女性たちは、子どもの頃から首を伸ばすために首輪をはめますが(当人たちの言うところでは、首を伸ばすのではなく、肩を下げているのだそうですが)そんなこと、日本でして学校へ行かせたら、虐待にすらなってしまうでしょう。
悪いことやいい事ですら、国によって基準が違うのです。さらに宗教によって、国も人間もずいぶんと違った考え方を持って生を営んでいるのです。

ここで、ちょっと視点を変えて心理学博士の実験より分析された結果を元に書かれた文献を抜粋記載してみます。

「家族的布置」
…感情はつねに伝染します。したがって最も身近な人々の感情や激情に対して、少なくとも内面で答えることを防げることは出来ないし、それに伝染したり、ときには心を奪われたりします。興奮やその身体的表現は、もともとこの生物学的な意味、すなわち個体や身体的表現は、もともとこの生物学的な意味(防衛メカニズム)という意味を持っています。…
発育中の人間の性格形成に影響するのは、善良で敬虔な生活や、教育上の真理を常に注ぎ込むことではなくて、両親や教師たちの、自ら意識していない、特有の情動的な態度が最も強く彼らに働くのです。
内面的に落ち着きが無く神経質な人は周りに不安を伝染させ、不平家はその不満を周りに移します。
父親と母親は、彼らの人格の印を子どもの心の中に深く刻み込みますが、子どもが敏感であればあるほど、その印はより深く刻まれます。一度も口に出さなかったことでも、すべて無意識のうちに子どもに反映されます。
子どもは身振りを真似しますが、両親にとって身振りが感情状態の表現であるように、子どもは身振りに感情を込めるので、次第に同じような感情状態を子どもに生じさせるのです。両親が世界に対してとる態度と同じ態度を子どももとるのです。
By C.G.ユング

どうでしたか? 心理学の視点からも同じような意見が出されていることがおわかりいただけたと思います。



「わたし」「ぼく」という人間を象ってきたもの、支えているものは何なのか、一度向き合ってみて下さい。それは、自分が意識するようになったころ以前は、誰が作ったものなのか、3本の柱は自分をどうやって育て、指導してきたのか、考えてみてください。
常識や道徳に縛られて、大切なものを失いかけてはいませんか?
常識も道徳もあなたを救ったり幸せにはしてくれませんが、常識ないと思った人でも、人間である以上はもしかしたらあなたの一生の友となるかもしれない可能性を持っていることがあるのです。

常識や道徳が無いと、人を評価してしまう自分こそに問題があるのかもしれないのですから。(*^_^*)
  • 2006.08.04 Friday
  • 13:01

社会・規則

時代が変わる!



私たちの生きている現代を、人々は様々な名称を付けた時代と呼んでいます。
黄金時代、偶像崇拝の時代、終末のとき、暗黒時代…等々そのときの社会現象や人類の歩んでいる道筋を見て偉大な知者らが、そのような名称をつけたのかもしれません。 確かに人類の生活環境はこの1世紀もの間に進歩し、まったく変わってしまったかのようです。生活スタイルは人類の生活様式に合わせて便利さを追求し、子どもたちへの期待度は高められ、いまや逃げ出したくても子どもらしく育ちたくても自由にはなれない現実という時間に縛り付けられてしまっています。 そして罪の概念は悪を増長させる土壌を平気で生み出し、だれにも知られないように落とし穴をあちらこちらに掘り続けているのです。また、悪のスタイルも知的レベルが上昇し悪化した結果、人間の想像を絶するような事件すら当たり前に生み出されてしまうのです。

さて、このオカルティックとさえ呼べるような現代は、今後どのような道を進んでゆくのでしょうか!

占星学や天文学、及びゾディアック十二宮を少しでも興味を持って学んだことのある方ならご存知かもしれませんが、これからの時代は『宝瓶宮時代』と呼ばれています。
簡単に説明をすると、古代人のあいだでは太陽は、いつも春分点を通過する星座の形や性質によって象徴されていました。毎年太陽は、12のゾディアックの星座を一周して、出発点の春分点に戻ります。ところが必ず同じところへ戻るのではなく、毎年ほんの僅かずつ天を一周する期間が短くなるそうです。その結果、前の年に天の赤道を通過したゾディアックの地点からほんの少し後ろで、天の赤道を交差をするのだそうです。実際の天の軌道と、ゾディアックで象徴している12の帯の軌道とが交差するのは、春分点と秋分点だけです。そして、計算上ではゾディアックの各宮は30度で、太陽は72年毎に一度ずつ後退するので、約2160年たつと、ひとつの星座ないし宮全体を後退することになるのだそうです。各12の星座がおよそ2160年後とに春分点を持っていて、次々と前の宮から受け継いで、約2万5920年かかって全天を一周することになるのだそうです。

ということで、この春分点がゾディアック上の一つの星座を通過するには2160年かかり、この期間を時代と名付けられているのです。
太陽が金牛宮にあった2160年は、太陽の神様は牡牛の肉体をまとったと言われておりましたし、白羊宮時代には、神の子羊が聖獣と見なされました。そしてイエスの生きた双魚宮の時代には「魚」が神性の象徴であるとされました。そしてついに現代から未来にかけて「宝瓶宮時代」の到来がやってくるのです。これらの時期もしくは年代のあいだ、宗教的な礼拝は該当する天上の宮の形をとるのです。ある精神がある肉体をまとうのと同じように、太陽がある性格をまとうのです。

この宝瓶宮はみずがめの宮と呼ばれています。
肩に水がめをかかえた男の記号であり、壺から水を注いでいるかの姿を表しています。この水瓶から注がれる水は、「永遠の命の水」と呼ばれていて、何度となく象徴体系のなかに表されています。
また、時に天使の姿で描かれてており、両性具有と想定されているのです。

古代の智慧とあらゆる時代を通して守られてきた秘密の奥義が、時代という概念を超えて脈々とその真理を伝承してきたことを、我々現代人はもっと深く認識することが必要です。正しく評価することがむずかしくなっている現代、私たちは再び古代の宗教や哲学、科学や星座の研究、原初的な神話の中から正当さを見つけ出すという作業をすることで、きっと現代に欠けているものを探し出すことが出来るのだと思うのです。

宝瓶宮の時代が到来します。
そのことは一体何を私たちに教えようとするのか、またそこから私たちは何を学ぶことで未来を予測することが出来るのか、それは現代の一線で活躍している私たちの重大な課題であるはずです。未来の子どもたちに胸を張って残してゆける財産は、きっとそこに隠されているはずなのですから。

(^_^)v
  • 2006.07.30 Sunday
  • 17:02

無意識の真実

殺人する無意識

人は何故自らの肉体や他人の肉体に『死』という概念を選択をしてしまうことがあるのでしょうか…。

 もともと人間は生まれてきたこと自体が苦しみの始まりなのです。それは、数々の学者や研究家、宗教家によっても証明されています。赤ちゃんが細い産道を通って泣きながら生まれ出ることもその象徴だと言われています。
 自らの人生に『死』を選ぶという行為は、ある意味では苦しみから逃げるという一つの手段です。それは無意識領域から見るとどういうことでしょうか。
 自己の意識に捕らわれている純粋な理性と真理の源である無意識は、自分に死ぬという概念に至る方向へと常に誘導しているのです。自己の意識がこの世にあって勝者であり続ける限り、無意識はその人の生の意義を認識させ、喜びの人生に変えるという逆転の世界へと到達させることは不可能なのです。無意識の世界がその人自身に発見され、認識されることによって始めて不可能が可能になるからです。
 生まれたままの自己精神は、そのことを知りません。 よって自分を殺すという無意識からの信号を、現実の肉体に課してしまうのです。 けれどそれは明らかに間違った方法なのです。
 無意識がその人の「我」という自己に近寄って、意識するように働きかけているということを認識するならば、『死』という概念は、肉体上のことを意味するのではなく、「自己意識」つまり自己中心的な自分という意識に死んで、無意識の根っこからくる神と本来つながっていた精神に新しく生きるということへ誘われている―つまり、精神領域でのことなのだと理解することが出来るのです。

 死は人類にとって不幸なものです。家族の死、愛する人の死は生きている人の心を傷つけ、苦しめます。それが病気であっても事故であっても、さらに自殺であっても殺人であっても『死』がもたらす不幸は私達生きるもの全ての上に重たくのしかかります。肉体の死は別れを意味するからでしょうし、不幸と苦しみの象徴だからでしょう。
 けれど私たち人類は、決して忘れてはならないことがあります。
肉体のいのちは必ず終わりがある―ということ。
そして、精神のいのちに終わりは無い―ということ。精神のいのちの終わりは始まりに過ぎないのです。
そんなリインカーネーション的なことは信じられないという方も多くおられますし、宗教でもなければ、そのような馬鹿げたことは考えないという方もおられるでしょう。
しかし、現実に歴史は繰り返され、人間は繰り返し誕生し、人類は進歩して社会は進化しているのに、人間が犯す罪は人類が始まってから何千年もの時を経ても、取り除かれることがありません。悪を象徴する盗み、妬み、偽善に殺人など等はどんなに社会が進化しても、人類の精神が高尚になっても、永遠に続く課題となっているのです。それは何故でしょう?
それこそが、無意識を意識できない人類の根本の罪だからではないでしょうか…

 私たちは『死』の概念をもっと深く考え、もっと色々な角度や視点から考えるべきなのです。『死』は恐ろしく暗いイメージなので、あまり考えたくないのが事実です。けれどもいつか私たち生命体は必ず肉体の死に至ります。
肉体の死を考える事も大切ですし、長生きするために前向きなことは素晴らしいことです。 でも、精神の死についてももっと知るべきなのではないでしょうか。精神が本当に死んでしまうのか。精神は死んだらどうなるのか。また、精神と遺伝子の関係、精神と心理、精神と宗教、精神と歴史・・・

様々な世界との関連を調べることで、『死』が精神―無意識に与える影響を少しでも人間の思考が知ることができたら、もっと未来の歴史は明るくなるものだと私は信じるのです。
それこそが錬金術やユング博士の無意識の心理学、古代の密儀などから種一弓が学んだ無意識の真実なのですから。(*^_^*)
  • 2006.07.11 Tuesday
  • 09:05